日  録  三月の悲劇  


2025年3月26日(水)

一昨日のこと、フロントガラスに吹き付ける雨足は強弱を繰り返していた。大気不安定なのか、夕刻になって外は荒れ模様である。雨にしては音が鋭いと感じていると、あと数百メートルで自宅という頃になってスマホから通知音がした。信号待ちにこっそりのぞくと「三井住友海上降雹警戒アラート ご契約の物件で直近の降雹に備えてください」とある。

物件(この場合は車)に被害が及ばないように退避しろという指示である。近くにガードのようなものも見当たらない。とりあえず自宅まで直行、といっても駐車スペースにも屋根はない。もし雹が降ったら幸運を祈るしかなかっただろう。降雹アラートははじめて受け取ったが対応は難儀なものであると思い知る。

思えば昨日今日は、黄砂警戒アラート、富士山噴火の火山灰警戒情報と怖いものが続いている。各地で起きている山林火災も脅威である。春なのに、いや春だからなのか、心休まる暇がない。

2025年3月25日(火)

思いがけず連休となる。明26日の東京地裁への出頭がなくなったからである。そのせいかどうか韓流ドラマ『被告人』を見ていた。5話くらいまでは続けて見たが、途中をすっ飛ばして22話から最終回26話まで明け方見終わった。

極悪人がついに被告となり、かつて被告だった検事が勝って、期待通りの結末となった。途中をすっぽかしたのはいくつもの理不尽に嫌気がさしたためである。不運の連鎖は見るに堪えなかった。みんないい人に戻って終わったので安心した。

2025年3月24日(月)

先日の腹痛は一刻の悪夢のようだったが、またいつやってくるかも知れないと怖れる日々である。忘れた頃にまた再びという気がしないでもない。ぼくは鉄分補給の錠剤のせいにしたが「ノロウィルス」を疑った人もいたとあとで聞いた。これっぽっちも考えなかったことだからビックリした。ノロならみんなに感染するのだ。パンデミックの原因となるなんて迷惑なことである。なによりも申し訳が立たない。ノロでなくてよかった。

また上に立つ人はこのまま死んでしまったらどうしょうと不安に駆られたという。蒼ざめた顔色で腹痛とやがてやってきた吐き気を堪えて2時間も休憩室に横たわっていたのである。ぼくにはそんな心配を思いやる余裕はなかったが責任あるものには「その先」の煩わしい手続きも含めて現実的な問題だったのだろう。治ってみればたった腹痛ごときにとは思うが上司から3日後に「告白」されてその懸念は当然かもしれないとこれにもぞっとした。もちろん笑い話のひとつだが、起こりえないという保証はない。

高齢者が働く場を求めているのは最近の風潮、しかしそこには問題点もあるとテレビで特集していたことがあった。それは労災がらみのことであったように思うが、「元気」を自任しても肉体はかぎりなく裏切っていく。寄る年波には勝てず、年寄りの冷や水、などとはよく言ったものである。それでももう少しやってみるか。

2025年3月19日(水)
 
仕事中お昼前から腹痛に見舞われた。何回か吐いた。かつて経験のある痛みだったが2時間ほど休んでも改善しなかったので早退。途中コンビニの駐車場で眠ったので家に着いたのは5時前である。すぐにベッドに横たわった。するとみるみるうちに痛みは消えた。「家に帰りたい病だな」と呟くと前もこんな風だったことを思い出した。お薬手帳を見ると鉄分補給の薬を3年半前に何月か服用したあとにやめている。あのころはよくこんな腹痛があったと思うと、薬への疑惑は消えない。

2025年3月18日(火)

17日早朝、コンビニの駐車場に入ろうとした時縁石に左前輪をぶつけてしまった。朝の眠気のせいもあったかもしれない。替え時を迎えているタイヤに損傷は及ばなかったのは幸いだったがホイールカバーがかなりへこんでいた。このところこんな話題ばかりだ。まったくうんざりする。

倉庫で仕事をしていると爪のなかが真っ黒になる。いままではそうでもなかったのに最近は気になってしようがない。数日前に貧血を改善する薬「クエン酸第一鉄Na錠」を舌の上で誤ってかみ砕いた時から舌先がやけどのあとのようにムズムズし味覚が変わった。その錠剤が原因という確証はないが、少しずつ改善しているから、きっとそうだ。

冬の寒さも今回がピークだという。春の到来に希望を賭けこのところの黒の呪縛を追っ払おう。

2025年3月14日(金)

昨日は「命拾い」のことを記録したが、もう一つ告白することがあった。先月半ばにぼくは過去の債務についてR債権管理会社から訴えられた。今月の26日には東京地裁に出頭して口頭弁論に臨まねばならないうえに、その一週間前までには「答弁書」を提出する必要があった。

法テラスの弁護士に相談に乗ってもらった。「時効の援用」を主張して請求棄却の判決を求めることとなって、今月初めに「答弁書」を原告と裁判所に送った。「応訴」したわけである。

すると12日になって原告が訴訟を取下げた旨の連絡が裁判所から届いた。そして今日「取下同意書」を郵送した。ぼくはついに「被告」にもなれなかった男だった(過去完了)という顛末。ともに自慢できる話題ではない。

2025年3月13日(木)

出勤途上眠気が極まり、ほんの2,3秒のことだと思われるが、気付いたときは反対車線のむこう端を走っていた。あわてて切り返し元のレーンに戻った。

20メートルほど先に企業の送迎用バスが止まっていた。バスの運転手は迷走ぶりをしっかり目撃したはずだった。すれちがったとき軽く手を挙げてあいさつをした。最初は照れかくしのような気持だったがすぐにお礼の心に変わった。バスが後続の車を止めていたから反対車線には車が一台も走っていなかったのだ。普通の朝の道路事情ならば大事故必至のところだった。バスのおかげで大過なく終わった。なんという幸運だったろうか。対向車と衝突せず、宝くじにも当たらないが、ここは命だけは助けてあげよう、しばらくは生き延びよ、そんな天の声が聞こえてきた。

はじめての逆走経験にいろいろ考えることはあった。寝不足のほかに原因はないか、例えば貧血のこととか、脳内が異常をきたしているとか。また、居眠りに気付くまでの間はまったく意識が飛んでいた。気を付けて運転するといっても不可抗力の一面もあるのではないか。それを免れるにはどうすればいいのか。引き続き考えていかねばならない。心配症の配偶者らには話していない。いつか大惨事になる、もう運転はやめろと言われるに決まっている。ここに書くのもためらわれたが自分自身への戒めのために記録しておこうと考え直した。

2025年3月11日(火)

三か月に一度の通院日。今日のテーマは貧血であった。

診察室に呼ばれるとベテランの看護師さんが血液検査結果をプリントアウトして「貧血ですか?」と訊いてきた。「慢性的にそうですね」と答えると「大腸検査なんかやったことありますか」と畳み込んできた。「ないです」と返答しながらいやな予感に打たれた。その検査表をみると前回はたしか12gくらいはあった「血色素量」(ヘモグロビンの値?)が9.8gに落ちていた。基準値が13.7〜16.8なのでかなり低い。

ほどなく主治医がやってきた。パソコン上の予診のメモを見、あれこれ画面を変えていった。「レバーなんか食べますか」「いえ食べません」。それから長考に入った。3分後くらいにお医者さんは言った。「食べ物でなかなか補充できていないのなら、薬で補強しましょうか」。「前に一度飲んで、止めたことがあります」と言ってみたがこの流れは抑えられない。たしか自分の意志で止めたはずだが、はっきりとした理由は思い出せなかった。さらに、

「血液サラサラの薬のせいで内臓で出血が止まっていないという可能性もありますが、とりあえず薬で様子を見ましょう」となった。検査まではいかなかったので何となくほっとした。

それにしても通院のたびに処方される91日分の大量の薬(ビタミン剤や葛根湯も含まれるが)にはげんなりする。中くらいのレジ袋に満杯となる。しかも今回はクエン酸第一鉄という錠剤が加わった。説明書には、主な副作用「発疹、かゆみ、吐き気。歯や舌が着色。気になる場合はご相談ください」と書いてある。意趣返しのごとく、きっちりと飲まなくてもいいですか、と薬剤師さんに聞けば「いえ、飲んでください」と諭された。
 
2025年3月7日(金)
 
梅は咲いたがプラムはまだか、とばかりに2本の木をのぞいた。小さな蕾が硬そうな皮に包まれているが咲くのはまだまだ先のようである。今日は北風が強く吹いて体感は真冬並みの寒さであった。
 
午後3時桃の節句に亡くなった近所の人の出棺を見送る。プラムの木の剪定をしていると「それは伐らないほうがいいのよ」と教えてくれたことがあった。ぼくよりもふたつ年上の、笑顔のきれいな人だった。前の道をいつの日かまた通りかかるだろう、そのときもきっと笑って挨拶をしてくれるだろう、しばらくはそんな気がするだろう。

2025年3月3日(月)

桃の節句。久々の雨のなか、庭の梅がやっとほころび始めたと見入ってから出かけたのだったが、昼過ぎてから数時間雪が降った。こちらはやっと初雪に巡り合ったということである。道端やら畑やらの雪景色を楽しみながらの帰路となった。道路には積もっていなかったのでノーマルタイヤの車も心安らかに走ることができた。

昨日足を滑らせてひっくり返った。パレットをまたぐような横着な仕事をしていたから罰があたったのか、両手に抱えていた荷物は床の上に飛んで、左の掌で全身を支えることになった。とっさに膝や頭を庇うことになったのはこの歳にしては上等過ぎると思われるものの、代わりに親指の根元を中心に激しい痛みが残った。一晩湿布を張るなどの手当てをしても今朝はまだ痛かった。我慢して仕事を続けるうちに、すなわち初雪を見る頃には消えていた。

内出血を示す紫の痣と腫れだけはまだ残っているがつくづく眺めながらこのあたりの呼び名は何だったか、手の甲に対してたなごころと言ったか、いやもう少し気の利いた呼び名があったはずだ、などと考えていた。結果、今回腫れた個所は解剖学的には拇指球部というらしいが、たなごころの語源を知って少し驚いた。手の心、手の裏などの意味があるという。つまり心には裏があるということか。
 
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