日 録 母の言葉
2025年5月30日(金)
「金曜とおっしゃいましたが本当は水曜ですよ」と正したつもりが「ちゃんと水曜日と言いましたよ。しっかり聞いてください」と逆に怒られてしまった。その人は同じ文脈で二回発言したがともにぼくには金曜と聞こえていたのだった。そのとき一緒にいた若者に「何曜日と言っていた?」と確かめると「水曜日」と答えた。これはまちがいなくぼくの聞きまちがいのようである。「ちば」が「しが」に「くぼた」が「ふくもと」に聞こえるような不思議な感覚であった。これらが音韻の問題なのに対して、こんどの失敗はぼくの耳の衰えに起因しているのかも知れない。そういえば最近は聞こえるが中味がつかめないので聞き返すことが多くなった。恐縮もしついには人との会話が億劫になっている。つまり無口になった。ひとりで考え事をしていることが多いので無口上等だが、母も叔父も晩年は何度も聞き返していたことが思い出される。遠い遺伝を思わざるを得ない。
2025年5月27日(火)
市の図書館へ行った。目当ての本は『昼間の酒宴』(寺田博著、1997年、小沢書店)である。所蔵されていることはあらかじめネットで調べて知っていた。開架にはなく書庫に仕舞われていたので受付カウンターの職員にメモを差し出して探してもらった。待つ間に借りた本の扱いについてのコーナーを見ていた。「みんなの本です。大切にしよう。こんなことがないように」と注意を喚起している。すなわち、水濡れ、書き込み、落書き、食べ物の汚れ跡などなど、証拠品ともいうべき実物が展示してあるのだった。いやな思いをしたことが何度かあったのでとても納得がいくのだった。貸し出しカードの有効期限が切れていたから更新してもらった。ここに来るのは何年かぶりだったのだ。閑話休題。この本は数々の傑作小説を生み出した名伯楽の作家との交流記である。読み進めながら小説を心底から愛し、文学を信じ続けた人だったのだと改めて思った。
2025年5月23日(金)
200枚の新作の題名をどうするかずっと悩んでいる。どこかにピタッとした題名が潜んでいると思いながら読み返しているがいまだ行き当たらない。そんななか朝7時に畑に降りてジャガイモの土寄せをした。一か月後の収穫に備える最後の土寄せである。茎はかなり高く成長し紫色の花も咲いている。それをかき分けて根元に土をかぶせていく。茎を傷めないようにおそるおそるかぶせていると師匠格のTさんがやってきた。畑にいるのがめずらしいので写真を撮ってくれたあと、「ジャガイモが土をはみ出して日光に当たらないようにもっとたっぷりと土を」とアドバイスしてくれた。さらに土をかぶせていった。一時間以上かかった。昼過ぎには早くも腰と肩の筋肉が痛み出した。
2025年5月20日(火)
「米を買ったことがない。わが家には米が売るほどあるから」。井戸端会議の自慢話を聞かされているような気がした。値段の高騰に苦しむ国民は、そうですか、それはいいですね、と頷く隣人とはちがう。農政の最高責任者の言だから寛容にはなれないのである。江藤拓、この人はよほどの政治音痴である。(二日後予想通り更迭されたが後任の小泉進次郎は「ぼくはコメを買っています」と言ったらしく、これには唖然とした。貧しい冗談であり、相当の阿呆である。さらにこの新しい農水相をつかまえて「お米何キロくらい買いますか」と訊く記者がいたがこれもひどい。同じ土俵に立ってどうするんだ、ほかに聞くべきことはあるだろう。)コメ政策の無策ぶりもむべなるかな。
2025年5月16日(金)
左肩の激痛、眠りに就く間際「まるで活火山のようだ」と思った。これはいい比喩だった。1年間眠っていたのに、5月に入って暖かい日が続くようになると活動を始めた。かれこれ2週間が経つ。
病院で処方された痛み止め・ロキソプロフェンを8〜12時間ごとに飲まなければこの噴火活動は収まらない。しかし所詮薬である。切れる頃になると痛みは再発する。いつになったら已むのか。右肩に噴火口のような大きなくぼみができたのはもう20年も前のことである。あのときも猛烈な痛みが何度も繰り返し襲ったのだろうか。もう覚えてはいないが、今回左肩も同じように変形していくのか。
ぼくの体は火山である。この痛みがいっとき已んだとしても、いつぶり返すか知れない。それがいつかは自分にはわからない。ゆえに怖れであるのだ。
3年前のこの日の日記には「残り香というが、残り痛なるものもあるのかも知れない。やっと増悪期が過ぎて鎮痛剤に頼らなくて済むようになったのに夜の間ずっとピリピリっと電流が走るような痛みを覚えた。実際に痛いのか、記憶が甦ってからだが反応しているだけなのか、わからない。」と書き留めている。そのことを配偶者に話すと「花粉症みたいなものだね」と言う。せめて「五月病」と診断して欲しかった。が、高齢者の五月病はないかも知れない。
2025年5月9日(金)
お風呂場の高い窓を閉めようとすると満開のつつじの花が飛び込んできた。もう一度窓を広く開けて眺めた。一メートルほどの青いフェンスをまたぐ隣家のつつじの木である。赤い花は夜目にも鮮やかで綺麗だが、それにしても巨木になっていることに驚かされる。つつじといえば道端にうずくまるように佇むイメージである。こんなに高いところの花は手が届かない。小さな頃、すなわち餓鬼の時分は、山の中や道端で花をちぎっては蜜を吸ったことがあった。汚くったって、毒があったっていい、蜜はただ甘かったからである。
2025年5月2日(金)
薬を飲んだから痛みが目を覚まし効き目が切れるとまた痛むようになるのか、薬に頼らずに我慢していれば痛みはついに隠れてしまうものだったかも知れない、ならば薬を飲まずずっと我慢していればよかった、浅はかにもいろいろ思慮し、恨み節やら後悔やらが飛び出すほどに、このところの肩の痛みは猛烈である。通院のたびに何回か処方されたロキソプロフェンがそのまま残っていたがついに取り出してほぼ一年ぶりに飲まずにはいられなくなった。40年来の掌蹠膿疱症、ここ数年は春から夏にかけてが増悪期であるようだ。長年飲み続けているビオチンなども完治への決定打ではないと思える。ただ発症は間遠になってはいる。年数か月だけというのは、もう少し我慢してこの難病と闘えということか。
さて気が付けばもう5月である。鯉のぼりの季節なのに贔屓のカープの調子がよくない。15安打が飛び出したのに5安打の相手に負けてしまう。野球とは運任せの面白いスポーツである。浮いたり沈んだり、浮かれたり悲しんだり、泣いたり笑ったり、一戦一戦が人生みたいなものだ。勝てばファンも喜ぶのは明るい未来を信じるからだ。さりとて負けたからといって落ち込むのも一時、次に希望を託してすぐに立ち上がる。
2025年4月25日(金)
実姉から長い手紙が届いた。Lineでもやり取りするがここは昔なつかしい肉筆である。昔ながらの変わらぬ筆致・筆跡で滔々と近況が綴ってある。母を偲ぶ部分に、
「母が教えてくれた言葉です。人をうらむな、うらやむな。イヤイヤ暮らすな、足るを知るものは常に富む。私は毎晩ねる前につぶやきます。」
とあった。ぼくにははじめて聞く言葉だった。「友達は大事にせなあかん」いつの頃かは忘れたが何気なく言ったこの言葉はいまも残っている。これがぼくへの教えだったのだろう。
2025年4月22日(火)
ぞろ目〜ぞろ目の日へ11日ぶりの更新となってしまった。夏日、真夏日とはいえ朝晩はけっこう肌寒かった日々である。いきなり夏とはならずに春の佇まいは残っていた。個人のことをいえば朝は冬装束で出かけ、そのまま冷蔵倉庫で働き、帰る頃になると上着とセーターはさすがに厄介者となる。めんどうくさいので着たまま車を運転して帰宅すれば配偶者に叱られる。暑いときに厚着でいると具合が悪くなるというのだ。適切というものが失われていた。かといって不適切とも断定はできない。春は短いものである。
一年半がかりの小説がなんとか形を成したので第一稿としてMPの山本さんに送って読んでもらうことにした。そのあとも連日読み返しながら手直しをしていた。大きな変更はないが、全体の流れはテーマに沿っているかが常に気掛かりである。もう自分では分からない。このようにしか書けなかったのは事実だからだ。これはもはや他人の批評を欲している。そんなことを考えているとあっという間に日は過ぎていったのである。
2025年4月11日(金)
新しい財布を買った、というか、買ってもらった。義父が遺していったものを長く愛用していたが表面がボロボロになってきた。特に不都合はないが替えてもいいのかなぁと思った。
ここ一か月ほどはつなぎとして携帯ケースを兼ねたポーチ型のものを使っていた。娘のおさがり、つまり女性用、そのうえチャックが長方形の縦と横の分しか開かないので男のごっつい手にはお札を出すにもカードを出すにもすこぶる難儀するのである。大いにストレスを感じるがそれでも首にかけて持ち歩いてきた。
財布を売っていそうな商業施設内のお店をなん軒か回ってみたが置いていたのはひとつだけだった。ピンとくるものがなかった。商業施設を出て最後に訪ねたのが「しまむら」。ここになければまた今度でいいよ、と呟いて中に入った。すると入り口近くの財布コーナーにふたりとも気に入ったものがあったのである。
縦横縦とファスナーが開き首にぶら下げたままいろんなものを容易に取り出すことができる。鮮やかな茜の色合いもなかなかいい。仔細に見ると表面にはスヌーピーの姿が浮き彫りとなっている。
Wikipediaによれば、スヌーピーとは1950年にはじまったアメリカ漫画のキャラクターで snoop(こそこそ嗅ぎ回る・こそこそ覗き回る・詮索する)から命名されたという。生まれてから75年経っている。団塊の世代のようにしっかりと生き延びてきたというべきだろう。これを機縁に少しは肖りたいものである。
2025年4月7日(月)
気温も高くなって、蓬髪がいよいよ煩わしくなった。そうぼやくと配偶者はまるで落武者の如しと言う。世界のあちこちで戦火が絶えないうえに日本まで軍事費増強やミサイル基地新設など何やらきな臭くなってきたこのご時世ではふさわしくない譬えだが、落武者とは戦に負けたサムライのことである。木の枝を杖代わりに両足を引きずりながら山を越えて行く。もとどりを切られ髪はだらりと肩まで垂れている。そんなイメージか。
武平峠の左の尾根を進むと御在所山の山頂に至る。右に行くと鎌ケ岳である。武平峠まで4,5時間はかかっただろうか。この道が江戸開幕のころ、有事の際京から江戸に下る抜け道とされていた、ぼくの育った村はその重要拠点であるからずっと天領だった、と教えてくれるのは高校・大学が同じ後輩のK氏である。彼はわが母校の小学校の校長を長く勤め、それを最後に引退してからも古里の過疎村落に惜しみなく愛情を注いでくれている。
ともあれ武平峠まで歩きふたつの山に登っていたころは蓬髪なんかではなく丸刈りに近い髪型だった。叔父から勉強ばかりしていると病気になるぞと怒られてからはかなり頻繁に登っていたように思う。とても落武者などではなかったわけであった。
2025年4月1日(火)
早朝から冷たい雨が降り続いている。外に出て確かめるとみぞれっぽい感じがする。秩父の山がすぐ近くに見えるここは大宮や川越あたりよりも気温は2,3度低い。午前4時に起きて小説「愛と美の胎内記憶」をチェックしはじめた。一年以上過ぎてようやく「着地点」が見えたモノで、本当にこの終わり方でいいのか、もっとほかの結末はないのか、まだ迷いはある。手放すには早い、あと何回か通読しなければなるまい。一方で、いつこの身が朽ち果てるか知れないので、読んでくれる人にとりあえず送っておこうか、などとも考える。そんな自分はやはり心配性な男である。言葉を換えれば小心者である。