日  録   


2025年5月2日(金)

薬を飲んだから痛みが目を覚まし効き目が切れるとまた痛むようになるのか、薬に頼らずに我慢していれば痛みはついに隠れてしまうものだったかも知れない、ならば薬を飲まずずっと我慢していればよかった、浅はかにもいろいろ思慮し、恨み節やら後悔やらが飛び出すほどに、このところの肩の痛みは猛烈である。通院のたびに何回か処方されたロキソプロフェンがそのまま残っていたがついに取り出してほぼ一年ぶりに飲まずにはいられなくなった。40年来の掌蹠膿疱症、ここ数年は春から夏にかけてが増悪期であるようだ。長年飲み続けているビオチンなども完治への決定打ではないと思える。ただ発症は間遠になってはいる。年数か月だけというのは、もう少し我慢してこの難病と闘えということか。

さて気が付けばもう5月である。鯉のぼりの季節なのに贔屓のカープの調子がよくない。15安打が飛び出したのに5安打の相手に負けてしまう。野球とは運任せの面白いスポーツである。浮いたり沈んだり、浮かれたり悲しんだり、泣いたり笑ったり、一戦一戦が人生みたいなものだ。勝てばファンも喜ぶのは明るい未来を信じるからだ。さりとて負けたからといって落ち込むのも一時、次に希望を託してすぐに立ち上がる。


2025年4月25日(金)
 
実姉から長い手紙が届いた。Lineでもやり取りするがここは昔なつかしい肉筆である。昔ながらの変わらぬ筆致・筆跡で滔々と近況が綴ってある。母を偲ぶ部分に、

「母が教えてくれた言葉です。人をうらむな、うらやむな。イヤイヤ暮らすな、足るを知るものは常に富む。私は毎晩ねる前につぶやきます。」

とあった。ぼくにははじめて聞く言葉だった。「友達は大事にせなあかん」いつの頃かは忘れたが何気なく言ったこの言葉はいまも残っている。これがぼくへの教えだったのだろう。

2025年4月22日(火)

ぞろ目〜ぞろ目の日へ11日ぶりの更新となってしまった。夏日、真夏日とはいえ朝晩はけっこう肌寒かった日々である。いきなり夏とはならずに春の佇まいは残っていた。個人のことをいえば朝は冬装束で出かけ、そのまま冷蔵倉庫で働き、帰る頃になると上着とセーターはさすがに厄介者となる。めんどうくさいので着たまま車を運転して帰宅すれば配偶者に叱られる。暑いときに厚着でいると具合が悪くなるというのだ。適切というものが失われていた。かといって不適切とも断定はできない。春は短いものである。

一年半がかりの小説がなんとか形を成したので第一稿としてMPの山本さんに送って読んでもらうことにした。そのあとも連日読み返しながら手直しをしていた。大きな変更はないが、全体の流れはテーマに沿っているかが常に気掛かりである。もう自分では分からない。このようにしか書けなかったのは事実だからだ。これはもはや他人の批評を欲している。そんなことを考えているとあっという間に日は過ぎていったのである。

2025年4月11日(金)

新しい財布を買った、というか、買ってもらった。義父が遺していったものを長く愛用していたが表面がボロボロになってきた。特に不都合はないが替えてもいいのかなぁと思った。

ここ一か月ほどはつなぎとして携帯ケースを兼ねたポーチ型のものを使っていた。娘のおさがり、つまり女性用、そのうえチャックが長方形の縦と横の分しか開かないので男のごっつい手にはお札を出すにもカードを出すにもすこぶる難儀するのである。大いにストレスを感じるがそれでも首にかけて持ち歩いてきた。

財布を売っていそうな商業施設内のお店をなん軒か回ってみたが置いていたのはひとつだけだった。ピンとくるものがなかった。商業施設を出て最後に訪ねたのが「しまむら」。ここになければまた今度でいいよ、と呟いて中に入った。すると入り口近くの財布コーナーにふたりとも気に入ったものがあったのである。

縦横縦とファスナーが開き首にぶら下げたままいろんなものを容易に取り出すことができる。鮮やかな茜の色合いもなかなかいい。仔細に見ると表面にはスヌーピーの姿が浮き彫りとなっている。

Wikipediaによれば、スヌーピーとは1950年にはじまったアメリカ漫画のキャラクターで snoop(こそこそ嗅ぎ回る・こそこそ覗き回る・詮索する)から命名されたという。生まれてから75年経っている。団塊の世代のようにしっかりと生き延びてきたというべきだろう。これを機縁に少しは肖りたいものである。

2025年4月7日(月)

気温も高くなって、蓬髪がいよいよ煩わしくなった。そうぼやくと配偶者はまるで落武者の如しと言う。世界のあちこちで戦火が絶えないうえに日本まで軍事費増強やミサイル基地新設など何やらきな臭くなってきたこのご時世ではふさわしくない譬えだが、落武者とは戦に負けたサムライのことである。木の枝を杖代わりに両足を引きずりながら山を越えて行く。もとどりを切られ髪はだらりと肩まで垂れている。そんなイメージか。

武平峠の左の尾根を進むと御在所山の山頂に至る。右に行くと鎌ケ岳である。武平峠まで4,5時間はかかっただろうか。この道が江戸開幕のころ、有事の際京から江戸に下る抜け道とされていた、ぼくの育った村はその重要拠点であるからずっと天領だった、と教えてくれるのは高校・大学が同じ後輩のK氏である。彼はわが母校の小学校の校長を長く勤め、それを最後に引退してからも古里の過疎村落に惜しみなく愛情を注いでくれている。

ともあれ武平峠まで歩きふたつの山に登っていたころは蓬髪なんかではなく丸刈りに近い髪型だった。叔父から勉強ばかりしていると病気になるぞと怒られてからはかなり頻繁に登っていたように思う。とても落武者などではなかったわけであった。

2025年4月1日(火)
 
早朝から冷たい雨が降り続いている。外に出て確かめるとみぞれっぽい感じがする。秩父の山がすぐ近くに見えるここは大宮や川越あたりよりも気温は2,3度低い。午前4時に起きて小説「愛と美の胎内記憶」をチェックしはじめた。一年以上過ぎてようやく「着地点」が見えたモノで、本当にこの終わり方でいいのか、もっとほかの結末はないのか、まだ迷いはある。手放すには早い、あと何回か通読しなければなるまい。一方で、いつこの身が朽ち果てるか知れないので、読んでくれる人にとりあえず送っておこうか、などとも考える。そんな自分はやはり心配性な男である。言葉を換えれば小心者である。


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