日  録   


2025年7月2日(水)

 帰路交差点で右折待ちをしているとき大きなトラックの後に続く小さなワゴン車が右折の合図を出していた。チャンスだと走り出すとワゴン車は合図を自ら裏切るように直進してきたのである。もう駄目だと一瞬思ったがぶつかりはしなかった。一応降りて「右に曲がるんじゃなかったの?」と手ぶりで示すと運転手は両手を合わせて謝っていた。
 前の信号で右折したときのままウインカーが戻っていないことに気付いたのだろう。ウインカーの出しっ放しはよく見かける「事故」ではある。直線道路では実害は少ない。何やってんだよ、早くしまえよ、と笑って済ませられるがこんな時はとんでもないフェイク情報となる。
今回相手に対する憤りはほとんど出てこなかった。すんでのところで止まったからである。ところであの交差点が「十字路」だったか、「T字路」だったか思い出せないのである。もし後者ならフェイクウインカーを即座に見破らねばならなかったのだ。こちらの注意力も問われる。吉田兼好流に言えば何事も他山の石であることよ、と云々。

2025年7月1日(火)

 竜巻、ゲリラ豪雨、雷のそれぞれ注意報が出ていた。午後になって空一面に黒雲が立ち込め遠く北の方から雷鳴が聞こえてきた。雨が降ればいっとき暑さを和らげてくれるかと期待しながら待っていた。竜巻も嫌だし、雷は近くに落ちたりすると大変だからごめんだがせめて梅雨らしく降ればいいのにと思った。そんなに都合よくいかないので天変地異でほとんど雨は降らなかった。竜巻もやってこなかった。遠雷を聞くのみだった。

2025年6月27日(金)

 早朝6時ごろ義妹がやってきて配偶者と二人で残りのジャガイモを掘った。休みの朝はいつも疲れを取るためにベッドの上でゴロゴロしている習慣なので家の中にいた。二人は一時間以上働いたようだった。収穫されたジャガイモを運び出すのはさすがに手伝ったがその頃はもうかなり暑くなっていた。さらに数時間後には背中が焼けるような暑さになっている。
 
ところで、前の夜には、送ってもらったジャガイモでカレーを作ったよ、洗ったり皮をむいたりいろいろ手伝ったよ、美味しかったよ、などと孫たちから写真と動画が届いていた。その前の夜はわが家もカレーだった。さらにその前は丸ごと蒸したジャガイモが食卓に並び何個もガツガツ食べた。好きすぎてたまらんのであり、ぼくはただ「食べる人」であるのだった。

2025年6月17日(火)

 最後に泳いだのはいつだったろうか、猛烈な暑さに釣られて思った。思い出すこともできないほどの遠い昔である。
 おそらく川ではなくて海だろう。大洗の海がかすかな記憶として浮かび上がる。それから30年以上は経っている。まぁ、思い出したところで涼しくはならない。熱中症を警戒しながら家の中でじっとしているしかない。そういえばスーパーの駐車場はガラガラだった。みんな賢明である。

2025年6月10日(火)

 三か月に一度の通院日。血液検査の結果を先生がやってくるまでの間眺めていた。鉄分とフェリチン、それに血色素量は低い数値のままだった。鉄分欠乏性貧血と診断されて先回鉄分補給の薬を処方してもらったが一週間ほどで止めている。腹痛と吐き気に見舞われて往生こいたからである。薬のせいというのはど素人の判断だがその後腹痛などは起きない。そのことを言うべきかどうか迷っていた。

先生がやってきてパソコン画面で同じ検査表を見て言った。「よくなってるね」「そうですか。肉などはよく食べるようにしているのです」「いやほんの少しだよ。また薬出しておきますから引き続き様子を見よう」。かくして言いそびれてしまった。91日分182錠は放置されたままになるのか。辛いことだ。

2025年6月2日(月)

『昼間の酒宴』には安岡章太郎との対談(1995年)が所収されている。短篇というジャンルがいつの間にか失われてしまっているという寺田博の危惧に対して安岡章太郎は 「それは文体に関する、文章に関する無関心ね。これはつまりボタンを押すと自動的に出てくる文章があるでしょう、ワープロか。あれが現代を象徴するね。やっぱり思考 というものは、脳髄と手が直結して出来るんだよな。ボタンを押して(中略)一挙にできちゃう機械が出ると、これは文章が長く、つまらなくなってきてね。」と言う。 「ワープロ」のところでぐっと来た。新人賞の下読みをしていたときはじめてワープロ原稿に出くわしたのは小林恭二の『電話男』だった。確かに長かったがすらすらと読めて、よかった。 新人賞もとった。それから数えれば40年以上経っている。いま「現代を象徴」するものと言えばAIか、はるけき道も、案外と短いものである。


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