日  録 湿った紙のような

 2003年6月1日(日)

 一の日で、ダイエーでは「市が立つ」のだと教えられ、へえぇと思った。毎日売っているわけだから市も何もないものだが、要は安売りであるのらしい。目の前にあっても、何も知らない、つまり灯台もと暗しと観念した。

 6月3日(火)

 午前4時にはもう夜明けを迎える。仕事が長引いた配偶者を車の中で寝そべって待ちながら、白んでくる空を恨めしそうに眺めていた。こういう生活が、もう何年も続けられているのだと、感慨めいたものも込みあげてくる。公園に沿った道路端である。前にも一台の車が停まっていた。あとからその後ろに付けたのだったが、いつも見かける車である。この日、エンジンが掛けられたままなのに気付いた。人が乗っているのか。ボデーには名の通った会社名が書き込まれている。この人は何者だろうと、あらぬ興味に駆られるのだった。
 昨日、ミッドナイト・プレス20号が届いた。丸五年が経ったのだという。まずは対談を読んだ。折しも、K女史からのメールに、ここ一週間は「文化の日」と決めて、あれこれの演奏会に行ったということが書かれていた。対談もまた、おおきに「文化」の香りがしたのである。ここから遠のいてはいけない、と自省した。

 6月4日(水)

 職場に上着を忘れてきた。こんなことはかつてあっただろうか。忘れそうになったことが一度あるような気がするが、退散する直前に気付いている。もう何年も前のことである。今日などは、明日別の教室に運ぶ荷物を車に積み込んだあと、これでよし、忘れ物はない、いや、ほんとうにないか、ない、と繰り返し自問してから帰途についたのだった。片道4,50分かけて戻ることも考え、いったん決心したあとに、職場の鍵は上着のポケットの中にあることに気付いた。二重、三重にショックであった。記憶力には多少の自信があるつもりだが肝心の“思い出す力”が弱っているのか。こんな失敗は、誰彼に話さずにはいられない。

 6月7日(土)

 義理の叔父の形見の夏服がクリーニング店から戻ってきた。はじめてのような気がするが、去年も着てましたと配偶者から指摘された。袖を通すと、確かにそうかも知れない、と記憶が戻ってくる。週末からの一週間はまた繁忙期になる。思考が停止して文化の日どころではない。だが、これしも言い訳に過ぎないのだろう。文化を作るのも自身の器量である。
 12歳になるキイロ(セキセイインコ)が2,3日前から左足を腹の脇に折り畳んで片足で止まったり移動したりしている。指先が開かないらしい。心なしか元気もない。外に出して調べていると手を擦り抜けて居間を飛び回る。それが何回もあった。飛ぶのには支障がない。鳥は空を飛ぶものだ、と改めて感心した。ともあれ、高齢だけに、心配の種である。

 6月10日(火)

 関東地方も梅雨入りしたようである。曇り空が続き、夜遅くにパラパラと雨が落ちてきた。紫陽花が咲き始めた。
 小鳥の病院のHPからキイロの状態をメールにて相談したところ院長先生から返事があった。『足を丸めるようなビッコはあまり良い状態ではないです。神経性の麻痺が疑われ、しかも予後があまりよくありません』という“紙上診断”だった。前後して、素人考えながら伸びて丸まった爪をいくつか切ったところ止まり木を掴める程度に左足が使えるようになっていた。以前のような元気さはないが、自分の思うところへ素早く移動できるようになったのである。外に出してやると、やはり飛び回る。
 神経性の麻痺とは、どういうことなのか、もっと知りたくなった。一読したときには、日々のストレスのことを連想したのだが、やがて、純粋に体の機能のことだと思えてきた。

 6月13日(金)

 二十歳前の若い女性がいきなり「にぎりめしが食べたい!」と言ったので居合わせた男たちは一様にびっくりした。同時になつかしい言葉を聞くと思った。かつてはみんなそんな風に呼んでいたのである。「にぎっておいてやるから、夜にでも食べな」と世の母親らはこどもに言ったはずである。そんな場面では“にぎりめし”以外のなにものでもないのだ。それが昨今は「おにぎり」と敬語まで付けて呼ばれる。コンビニやスーパーで売られるようになってからの変化だと思われる。とともに“にぎりめし”が江戸の町人の言葉になりつつある。
 自慢じゃないけど、当方などは上手ににぎれる。もっとも、父さんのおにぎりなんて、絵にはならないか。

 6月15日(日)

 配偶者の送り迎え、英検の監督などで早朝から慌ただしく動き回った。代わりますという新人に夜の部は委せて、早々と帰宅すると「扇子」が届いていた。夕方娘がやってきて、父の日のプレゼントとして置いていったのだという。大名行列の奴さんをあしらった絵柄は、悪くなかった。昨年の秋には、奥州平泉のお土産として「般若心経寫経扇」を若い者らからもらっている。扇子が二本、目の前にある。交互に使う自分の姿を想像して、にんまりとした。顔に風を送ることができるのは、安寧のひとときに他ならないと考えるからだ。

 6月17日(火)

 小学校5年生(11歳)の少女が自分のことを「ぼく」と呼んでいることに気付いた。読書の大好きな子だから、何かの本に触発されたのかも知れない。しかしそこは敢えて訊かず、しばらく静観していようと思った。松村栄子の『僕はかぐや姫』の主人公は17歳の女子高校生だった。はじめに“原稿”を読んだとき、17歳という危うい時期に「僕」と呼ぶ謂われが確かにあると感じさせられた。再読をうながされる。と同時に、少女のこれからが楽しみになった。
 早起きをして練馬の私立中学・高校の学校説明会に出かけた。毎年この行事の時は雨だな、と思った。帰りは、石神井公園、田無、東久留米、清瀬などを経由して志木に戻ってきた。2倍近くの時間がかかったが、新人に運転を任せていたので、高い樹木の案外と多い町並みを十分に眺めることができた。雨と緑は似合うのだった。

 6月19日(木)

 西の方では大型の台風6号が猛威を振るっているというがこちらは朝から粘っこい陽射しにおおわれ、ついに真夏のような一日となった。
 午後2時ごろ出勤の途中に立ち寄ったスーパーの駐車場で20年近く前の教え子に出逢った。こんなところで、と思うが、聞けばいまここにいる相応の理由があった。彼女は中学受験をめざす一児の母親である。お茶でも飲もうか、と誘うが住宅街故にそんな場所も見当たらない。しばらく車のそばで立ち話をしていたが、お互い暑さに耐えられず、車の中に入った。エンジンをかけエアコンをつけで、まわりの人には迷惑だったかもしれないが“ひとり娘”の進路について30分ばかり話し込んだ。
  別れてから、教え子の子供ならば“孫”にも当たるのだと思った。「オヤジ」から「オジイちゃん」へはあと一歩のところにきている。ああ、やんぬる哉。

 6月20日(金)

 印字にかすれが残り、どんなにしても直らないのでプリンターの修理を依頼していたところサービスマンが二人来てくれた。2日前には営業のM氏がメールでの問い合わせに答えるかたちで調査にやって来た。あれこれ試みたが埒が明かず、後日ということになった。そのとき、ビラ作りを控えているので早急にと注文を出しておいたので、早速の訪問となったのである。
  ひとりが側面を開けてローラー(と思しきモノ)を取り出して、「汚れてますね。掃除してみます。万一のために代わりの機械を持ってきたのですが」と言いつつ数回こすると、かすれが消えたのである。この間ものの3分も経っていない。「これなら、自分でもできますね。面目ないです」と謝って送りに出ると、もう一人が入り口に置いていた代わりの機械を持ち上げるところだった。その万が一のためにわざわざここまで運んできたのか、と思うといっそう頭が上がらない。決して軽いものではないのである。大山鳴動してネズミ一匹、とはこのことかと、体感した。

 6月23日(月)

 昨日の夏至の日を境にまた梅雨空が戻ってきた。深夜近くには霧雨が降っていた。傘も差さずに歩いていると、全身に水が滲み通って心地よい。ただし、頭と、肩の痛さは払底できない。やっと手紙の返事を書くことができた。手元に届いてから10日が経っている。Eメール依存症のせいで、ペンを取るのが物憂くなっている。これは反省の要あり。と同時に、あっという間に時が過ぎていく、と実感した。

 6月26日(木)

 数日前の午前3時過ぎに、なにげなく教育テレビを見ていると『なぜ なぜ! にっぽん』という番組の再放送をやっていた。何本か分を連続して放映するらしく、そのうち“ロボット最前線”とタイトルに出た。とうに眠気から遠ざかっていたので真剣に見てみることにしたのだった。案の定、介護食事支援ロボットのコーナーがあり、今年30歳くらいになるかつての教え子が研究チームを代表して話す場面が現れた。先月28日その母親と妹に路上で出逢って、テレビに出たという話を聞いていたのである。中学生の頃から比べれば老けた感じは否めないが、面影は残っている。そう言えば当時、難解な数学の本を“愛読”していたなぁ、とこちらの記憶も甦ってきた。こんな時刻に、偶然目にしたテレビだっただけに、大当たりの感覚がしばし残った。

 6月30日(月)

 先月はじめに自転車で転んで下顎を骨折した中学生の女の子が母親に連れられてやって来た。ニコニコ顔であった。母親の話によると、まだ全快とまではいかないが驚異的な回復ぶりだと主治医も驚いているという。入院一ヵ月、リハビリに一ヵ月と入学早々とんだ災難だったわけである。それでも、笑顔を忘れないでいる姿は見習わなければならない。6月最後の日は、とても暑い日だった。冷房のない教室で授業を受けてきた女子大生が、ノートが湿って書くほどに破れそうで怖かった、と表現していた。なるほど、と実感できた。
     


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