日  録 歳月は人をどこへ?

                                
 2004年4月2日(金)

 数日前12通ものメールを受信した。一回3通が過去の最多記録なのに何ごとならんと気色ばんだ。ノートンアンチウィルスが検知してくれたところによれば、案の定、ほとんどが感染していた。すぐに削除したが、1通のみは表題が「掌蹠膿疱症について」となっているので首を傾げつつ開けるかどうか思案した。送信者もヘンなハンドルネームなのである。しかし偶然にしてはできすぎている。この病名こそは自分のものであるのだ。
 おそるおそる開けてびっくりした。このHPに公開している「忘れがたい人たち」という文を読んだ人が、完治に至る道を解説したサイトを紹介してくれているのであった。早速渡り歩いて、こっちなどは軽症もいいところだが、重い人は大変な苦労をしていることを知った。なまなかなことは書けないと反省。また、検索エンジンでこの文を見つけたということだったので、試しにやってみた。病名を書き込めば、ざっと2000件が現れる。いつまでたっても「行逢坂」に行き当たらない。途中で諦めた。よくぞ見つけてくれた、とこれにも驚嘆。有り難い人もいるものである。

 4月4日(日)

 冷たい雨の日曜日。チチチ、チチチと小鳥が鳴くので外を見ると、夾竹桃の葉の茂みに一羽の雀が雨宿りしていた。はぐれたのかと呟くと、ほどなく上空に舞い上がっていった。
 奥歯にかぶせていた金属がはがれたあと土台になっていた歯の一部が飛び出してしまった。異物を扱うように舌の先で弄ぶ。ほんの小さなとんがりだが口の中ではなかなかの存在感を見せてくれる。口の中に牙を持ってどうするのかと自嘲。
 朝、地震によって目を覚まされた。その時はしかとはわからずすぐにベッドにもぐり込んだ。本当に地震だったと知ったのは夜になってからであった。これが貴重な休日の三題噺? とすれば桜を散らす雨同様、脳天気なものであった。

 4月6日(火)

 昨日の昼すぎから喉奥に異和を感じるようになった。粘膜がざらざらとして気色悪く、つい空咳をしてしまう。今日になっても同じような状態で、ついにきたかと人並みの変化を喜ぶ気持ちがある。思えばことしは、冬の間一度も風邪を引かなかったのであった。逆説的に言えば風邪なぞは元気のバロメーターではないのか。それがなかったということは“冬眠”同然だったのかも知れない。元気に活動していれば風邪も引くし怪我もする。2日前には、車の中の落とし物を探そうとアクロバチックな姿勢をとっていてふいに躯を滑らせ、肋骨をアームレストに思いっきりぶつけてしまった。こちらの痛みは今がピークである。しかしこんなのは、生きて活動していた証にもならないだろうなぁ。

 4月8日(木)

 イラクで自衛隊撤退を要求して日本人が人質として拘束された。三人のうち二人は自衛隊派遣に明確に反対を表明している人らしい。また、民間ボランティアとして“真の人道支援”を行っている人でもあると報じられている。そんな人たちが誘拐されて生死を支配されるなんてまったくお門違いで、理不尽なことである。
 彼らの命を救うために自衛隊はすぐに戻ってくればいい。復興の名を借りた“侵略”やその後の“利権”などよりも3人の命、ひいては自衛隊員の命の方がはるかに重いに決まっている。「世界にお願いするしかない……」人質のひとりの父親の言葉が身に沁みる。

 4月12日(月)

 イラク人質事件の新しい情報を待つ間、BSでM.J.フォックス主演の『カジュアリティーズ』(1989年原題は Casualties of War)を見てしまった。元来戦争ものは好まないが、ついつい最後まで付き合ったという感じであった。ベトナム戦争当時のアメリカ軍で同じ部隊の兵士が犯した「犯罪」にひとりの良心的な兵士が反発し、告発するというストーリーであった。最後はどうなるのかと多少の興味をつないで観ていた。すると、無垢の村の娘を連れ去り、強姦し、あげくの果てに殺してしまった兵士らに罰がくだり、兵役を離れた主人公は陽光の降り注ぐ海辺の街で殺された村の娘とうりふたつの女性と出会うのである。「悪い夢を見ていたみたいね」「そう、悪夢だった」「それもここで終わりよ」記憶のままに字幕を写すとこんな風である。所詮映画だとは思いつつも、その楽天主義に腹が立った。イラクの現実をみれば、夢などとはとても思えないからである。懲りない「アメリカ」と思った。

 4月14日(水)

 1ヵ月近く前お土産にもらったカンボジアの Ratanakiri というところのコーヒーをはじめて飲んだ。香りも味も甘やかで、以前ハワイから戻った人にもらったものに似ていた。いつもとちがう味で、まちがいなく躯はリフレッシュする。が、しかし……イヤなニュースが外からも内からも続いてやってくる。咲き揃ったチューリップの花、大ぶりの花びらや屹立した茎は、こんなにも堂々としているのに。

 4月17日(土)

 イラクで人質になっていた日本人が次々と解放され、イラクの人も含めてみなが喜んでいるときに、「自己責任、自己責任」と喧しい声が聞こえてくる。まるで鬼の首でも取ったみたいに連呼するのを聞くと、ちょっと違うんじゃないかと、異和を覚える。政治家が言うと特に問題のすり替えも甚だしいと思う。国民を救うのは国家の義務であり、それこそ責任なのである。あまつさえ今回彼ら若者の“果敢な志”を危地に陥れたのは他ならぬ彼らが率いている国家なのである。小泉首相にひとことと促されて「あなたよりも私たちの方が日本人のことを大切に考えています」聖職者協会・クベイシ師の言葉がずしんと響くではないか。

 4月19日(月)

 複数の“ラジオ番組”によれば、昭和30年代(1955年〜1964年)と1970年代(昭和45年〜昭和54年)がいま注目を集めているという。前の10年に小・中学生時代をすごし、後の10年に20歳代がすっぽりと入る当方としてはなにかひと言言わざるべけんや、という気になる。これは何なのだろうか。
 とりわけ思い出されるのは、定期的にきて一晩泊まっていった鎌売り、泊まりはしなかったが食事時に出くわすと家族同然にご飯を食べていった時計屋、紙風船をくれた薬屋、さらには腹巻き・すててこ姿でちりめんじゃこを売りに来た人である。行商の果てに辿り着いたのが、当時戸数100軒足らずの、ここから先は大きな山のみという“最後の村”だったのかと思えば、いままた新たな感興が湧いてくる。
 それぞれ個性のある中年男たち。耳元でその声が甦ってくるほどにみな元気だったが、30年代が終わる頃にはもう見かけることもなくなった。田舎を出る直前(18歳の時)、餞別のひとつとして腕時計を買ってもらった場面をはっきり覚えているからあの時計屋だけは40年代に入っても来ていたのだろう。
 普及し始めたテレビは村全体でまだ数台しかなく、親戚でもないのにそれが当たり前とばかりに勝手に上がり込んで見入った記憶がある。聞けば、全国どこでもそんな風景が見られたという。電話も同様であったらしい。こちらも、100メートルも先の雑貨屋さんが一番近い電話だった。おそらく了承も得ずに連絡先に指定していたから、かかってきた電話はわざわざおかみさんが走りながら呼びに来てくれた。かかったままだから一刻も早く知らせないと電話代がかさむのである。高校生になったばかりの頃(昭和39年)、中学時代の友達がバイクの事故で死んだという報せもその電話にかかってきた。  
 個人的な記憶の中の30年代は全国区のそれと見事に重なっている。もはやノスタルジーではない。いまの時代へのルサンチマンかと言えばそうでもない。思い出すままにいろいろ書き残しておきたいなどと考えた。

 4月20日(火)

 メガネを取ったらおじいちゃん! と言われてしまった。少なからずショックを受けて「じゃあ、かけたらなんなんだ?」と問い返すと、そのさくらという名前の小学生は「会社員だよぉ」と言い放った。これからは若造りを心がけよう。70年代へ先祖返りするようなつもりで、長髪宣言でもするか、と。

 4月23日(金)

 昨日、今日と暑い日が続いた。それも日中のことだけで、この夜などは結構冷えた。春の天候はままならぬ。ほんとうの春を知らないままに夏を迎えてしまうのだろうか。
 職場のパソコンの調子が悪い。もともと悪質な、しつこいウイルスに感染していたので、20日にノートンアンチウイルスを導入した。直後こそ、4件の感染ファイルを見つけてくれ、さすが、と喝采を送ったものの、2件の感染ファイルはアップデートしないと撃退できない新種のウイルスだった。ところが、アップデートができないのである。日一日と動作が遅くなっていく。インターネット接続にも支障が生じる。パソコンに詳しい栄人に修復を頼んでいるが、ウイルスの仕業かアンチウイルスソフトの仕業か、どちらも怪しいとぼくはにらんでいる。こんな時のことわざがあったな。イタチごっこ、病膏肓に入る、いや違うな。こうなると、袋小路に入ったようで、もう手に負えないのである。

 4月24日(土)

 とりあえずの対処としてウイルス対策ソフトのアンインストールを始めたのが午後6時、それから4時間経った午後10時、まだ終わる気配がない。ついに業を煮やして、そのままにして退出した。誰もいなくなった部屋で“ひとり”遅々とした作業を続けるパソコンのことを考えるとつい人の孤独の深さに思い至る。ウイルスという存在(命名も含めて)自体が擬人法にみちみちている。ウイルスとひととの闘い、そこにぼくらのような“しろうと人間”は関与できない。それもまた孤独の一種であろうか。

 4月27日(火)

「反日的分子」という発言に耳を疑った。当の国会議員はかつて広島のラジオ放送局でパーソナリティをやっていた。自分の名前に「木偏にホワイト」と“ルビ”を振って、軽快・酒脱な話しぶりでそれなりの人気を集めていた、と思う。当方には特段の思い入れはないが、青春のあの頃に聞いた声々はやはりなつかしい。その同じ口からこんな時代がかった言葉が飛び出すとは!
 歳月は人をどこへ連れ去るか、やはりわからないものである。

 4月29日(木)

 朝から5時間もかけてPC修復に取り組んでくれた直人、栄人の二人を引き継いで(といっても再構築ができたあとに)、夕方からウイルスソフトを使ってファイルのスキャンをした。4回やったがどれも同じ結果となって、閉口した。
 何個かの感染ファイルは修復してくれるが、最後に「3個の感染ファイルが見つかりました」と出て、修復の項をクリックすると、検疫を勧めます、とくる。検疫をクリックすれば、削除してください、となり、「完全に削除しますか。Y/N」もちろんYにしてこれで万全と思いきや、接続に不都合が生じ、再スキャンという成り行きだった。
 2回目くらいで、いったん消えても起動と同時に暴れ出すウイルスか、とさすがに見当はついたが抜本的に解決する方法を考えるだけの才覚はなく、機械的な作業を繰り返しすのみだった。
  いよいよ“イタチごっこ”だと思った。一方で、芸もなく4度も同じことをやるなどは、よほどの偏執と自己分析。

 4月30日(金)

 昼過ぎに駐車場に車を入れていると前の通りから会釈する若者がいた。手招きで呼びつけて、いまや同業者となっているこの卒業生とほんの少し話した。となり駅にある教室を「委されている」という。30代前半だと思うが、なかなか貫禄が出てきたと思いながら後ろ姿を見送った。子供は生まれたかと聞くのを忘れたとあとで気付いた。お腹の大きい奥さんと一緒のところに出くわしたのはいつだったろうか。ついこの前のような気もするし、もう何年か前のような気もした。
 夜にはその同じ通りから見知らぬ人が怒鳴り込んできた。3階のベランダからペットボトルの空き瓶が降ってきて臑に当たったというのだった。投げた生徒に謝らせ、こちらも監督不行届を詫びた。いたずらでは済まない所業にて、帰り際にもう一度本人を呼んで説教。    


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