日  録 青春、逆戻り?     

 2008年9月1日(月)

 ちりめんじゃこ、というのはなんとなし郷愁を誘うものである。味においてもしかり、であるが、小さい頃、縮みのシャツにステテコ姿(だったと思う)、茶色い腹巻きをした「おっさん」が、嗄れた声で「じゃこはいらんかい」と定期的に実家を訪れていた。その光景が、いま鮮やかに浮かんでくる。
  というのはこの一ヵ月の間に、三回も、ちりめんじゃこを人からもらったからである。三回、となればもはや偶然では済まされず、書かずにはいられないのである。

 最初は、千葉沖でとれたものを隣のTさんが持ってきてくれた。こちらは、生乾きの「シラス干し」に近いものだった。新鮮で美味しかった。関東の居酒屋などでは、大根おろしと混ぜた「シラスおろし」が、必ずメニューにあり、真っ先に注文したくなるのである。
 次は、お盆に帰省したとき田舎の叔母がお茶などと一緒に入れてくれていた。こちらは天日で十分に干した、昔なつかしい硬さ(つまり歯ごたえ、か)があった。

 ちりめんじゃことの縁は、このふたつでも十分深いと感じていたところ、数日前、かつての生徒のママから「京都で美味しいちりめんじゃこを見つけたので、お持ちします」 と連絡があった。試食してみたところ、いけたので、心ばかりのお土産として買ったのですよ、と嬉しいことを言ってくれる。
 じゃこはさらに小さくなり、紫蘇の色などが鮮やかに移り、硬さも固く、とても上品なちりめんじゃこであった。
 大好物だとは、三人とも知りはしないだろうなぁと、ほくそ笑みながら、この京都の、塩気もたっぷりのちりめんじゃこをパクパクと食べたのだった。

 9月6日(土)

 そこを通りかかるたびに噴霧器に手が伸びて、鉢に移したばかりのゴムの木(幼木)に吹きかける。挿し木の枝でもらってきた二本である。靴箱の上にかなり前からおかれている、となりのトポスにも吹きかける。根元の土ばかりではなく、葉にもシャワーの如く浴びせかける。これは、日課というよりも、偏愛的な行為ではないか、ふとそう思った。植物には迷惑だろうか。

 9月から、仕事の様態が少し変わった。水、金が従来通りで、他の日は、目下“浪々の身”である。いずれ埋めていかなければ、生活が成り立たなくなるのだが、まだ楽観的で、なによりも心身がかなり健康になった気がする。

 一日十数回の霧吹きと関わりがあるのか。あるのだろう。屋内にあって、外にいるかのように雨を浴びて、黄緑の新しい葉を次々と伸ばしてくる。しょぽかったトボスも、新しい葉が増え、艶々としてきた。植物は人を欺かない、と実感する。

 9月7日(日)

 自宅にいる時間が長くなると、細々とした作業が出てきて、性分上すぐに済ませてしまいたくなるので、思いは忙しい。昨日は門灯の取り替え、今日は、排水溝のどぶ浚え、という風である。
 これなどは定期的にやらないと、ドロが詰まって、流れなくなってしまい、日常生活に支障を来す。築30年なら、構造的に欠点もあるのだろうぐらいに思って、跳ね返りを顔面に受けても、生活が大事と呟きながら(?)、スコップで水と一緒にドロをくみ出していた。したがって、なぜこんなにもドロが入り込むのか、疑問を覚えたことはなかったが、ついに原因を見つけたのである。
 台所から流れ込む第一貯水槽のコンクリの壁が崩れていた。地上とひと続きとなっている。これでは、際限がない、と思い至った次第。早急に、手立てをと考える。

 9月13日(土)

 そろそろ十五夜だという。今週はじめに上弦の月を見たから、明日か明後日にも満ち満ちて望月となるのだろう。調べれば幾日とわかることながら、あえて曖昧にしておきたい気分である。
 朝夕の風はめっきり涼しくなってはや秋のもの、開け放した窓から虫のすだく音が絶え間なく聞こえてくる、ときおり南部鉄の風鈴がチリチリチリンと鳴り響く。ここで「去りゆく夏を惜しむかのように」と書き加えようとして、はたと躓く。「昼間の残暑を覚えているのだろうか」と擬人法にしてみても、同様の躓きが襲ってくる。

 二週間ほど前、不眠症に悩む、蒼白い顔の若者が「いま、やたらと風鈴が欲しいんですよ。どこに売っているんですかね」と訊いてきたことが思い出された。夏の終わりになってなんでまた、などと思ったものだが、理由は詮索しなかった。クーラーも扇風機もない部屋で生活している、と言っていたからせめて音から涼を呼び込もうと考えたか。

「全然眠れないんですよ」と言いつつ、早朝の仕事にやってくる。こちらはかなり年上の分、何か方策を考えないと倒れてしまうよ、とそんな話題が出るたびに躯を気遣ってきた。その彼は、このところ欠勤が続いている。風鈴を手に入れただろうか。

 9月14日(日)

 ここに越してきてから、やがて4年となる。前の住まいから移植した樹齢26年のモミジの木のすぐ横で、もともと植わっていたもう一本のモミジの幼木も、この間に大きく成長して、空に向けて枝葉を広げるようになった。そのこと自体は喜ばしいことでないはずはないが、上空で錯綜していまや移植したモミジの枝葉を隠すようになった。移植した方には当然愛着も思い入れもあり、かつてのような燃えるような赤を正面から見たい。来るべき紅葉の秋に暗雲、と考えたのだった。

 地上一メートルほどのところから、上に高く伸びた枝を三本ノコギリで切り取った。根元から伐り倒せばすっきりする、と思いつつさすがにそんな勇気は出なかった。枝三本にしても、太さ直径7,8センチ、高さにして、3メートル以上はある。相当の葉を繁らせている。罰が当たりませんように、と祈るような気持ちだったからである。

 家の中から改めて眺めると、いままでちぢこまっていた枝葉が、悠々と揺れている。こちらに向けて、もっともっと伸びてこい、と呼び掛けたくなった。

 9月22日(月)

 つれづれに、98年ごろで途絶えてしまったノート(バインダー)を捲っていると、新聞の切り抜きなどに混じって、70年代の終わり頃に書いた書評が出てきた。4年前の引っ越しの際に、雑誌(『創』)本体を捨てるために、その部分だけ破いた覚えがある。当時編集部にいた友人から頼まれて、約一年間、主に新刊の小説について書いた。紙は黄ばんで、いまにも破れそうで、やがてこの字は消え去っていく(事実、となり合わせに挟まっていたファクス用紙は、うっすらと字らしきものが浮いて見えるのみで判読不能だった)と思うと、急に愛しくなって、そのうちの3本を原文のままワープロに打ち込んでいった。(「書評アーカイブ」と、ちょっと気取って、このHPにUPした)
 
 他に『水に映す』(丸山健二)『過ぎし楽しき年』(阿倍昭)『化粧』(中上健次)『かれらが走りぬけた日』(三木卓)を取り上げて、自身の関心(問題意識)に引き寄せて、勝手気ままに書いている。
 三つ打ち込むだけで物理的、というよりも精神上の時間がかかった気がする。20代の終わり頃、こんな文章を書いていたのか、と新たな感興も湧いた。私的アーカイブ、の所以である。

 9月28日(日)

 このところ、寒い、という感じである。夏の延長のつもりで下着のシャツも着ず、おまけに半袖姿でいると、つい身震いが起こり、くしゃみも出てくる。こんなに急に冷えるのは、毎年のことなのだろうか、と昨年や一昨年の日録を読み返してみた。同時期に「寒い一日」と記してある。やはり季節の巡りは、いつも唐突なのか。
 今日、龍眼の木を玄関に移した。南方の木ゆえに、寒さに弱い、といわれていた。陽が射せば日中はまだしも、朝夕は、この幼木にはこたえるに違いない、と案じつつ、縁台で、風にゆられ、入り込む雨しぶきに濡れそぼつけなげな姿を見るにつけ、踏ん切りがなかなかつかなかった。が、部屋の中に入れてみると、気持ちが一気に楽になった。「ときどき外に出して、陽に当ててやればいいよね」という配偶者の言葉に、目からうろこ、であった。「内か、しからずんば外」という観念に縛られていた。頭が硬直していたなぁ、と反省しきり。“青春、逆戻り”をめざす身には大黒星である。

 25日、通信講座のスクーリングのために上京した時任氏と再会。新宿の「薩摩おごじょ」に行く。薩摩料理を堪能した。からいも、ニガウリなどの野菜は知覧から直送してもらっている、という。旨いはずである。       
  
 


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