日傘の女

 岩塊の剥き出しになったせせらぎを何度もまたぎ、歩を進める度に揺れるススキ、蔓草、潅木の枝々を、躯を竹刀に代えてなぎ倒していった。はるか上方の、遮るものとて何もない尾根道には恩讐の風が吹きわたっている。
 その尾根を目指す隊列のまんなかに男がいた。列を組む女たちは白いブラウスに紺のスカ−トという地味な衣装に身を包み、黒目がちの眼を輝かせて、ひたすら前へ前へと進んで行く。喚くでも叫ぶでもなく、擦り足まがいの歩みを続ける。疑うことを知らないばかりか信じることが愉しくてしようがないという風情の、もう若くはない女たちである。すぐ近くの数人は上着の裾を軽く握って、男とのつながりのよすがとしていた。姿形や物思わしげな仕草から言えば、夫も子供も親も、すべての係累を捨て置いてきた女たちに見えた。
 計りようもなかったが、来たった道のりから考えれば、かなりの時間が経っている。いくつか場面が変わり、付き従う人の数が増えていた。それも、映像の上に映像が重なるように、唐突な増殖であった。男は、爪先立ちになって前後左右に頭を巡らせ、数を数えた。二十三までで、あとは推測した。ざっと、百人か。 
 百人というのはたしかに壮観ではあったが、それらは人間ではないと男は思った。個々の人の、その気持ちがわかる、とか、事情を詮索するようなことをすれば、たちまちのうちに教祖の座から引きずり下ろされる気がしたのである。
 教祖はわかってはいけない。ただみそなわすだけの存在でなければならない。
 見て、頷く。それがすべてだ。
 勤め先の、ついに馴染めなかった同僚がかつて酒の席で揶揄気味に予言した通り、男は中年女の圧倒的支持を勝ち得た、教義も信念もついにあやしげな宗教の指導者だった。おぼつかない足取りが、その証拠といえた。
 男がうしろを振り向くと、赫い日傘を高く掲げて合図を送って寄越す女がいた。背丈は列を抜きん出て、誰よりも高い。
 ハンカチで額の汗を拭う日傘の女に目で笑いかけた。どこかで一度出逢っていると思った。女はひとり着物姿であった。
 葉ずれの音が耳に障るようになり、上空を見上げると風が唸り声を立てて走り抜けていった。尾根の向こう、木々の影間に緩い登り坂が伸びている。手前はだだっ広い野原であった。
「ひと休み、しよう」
 男は天を仰いだまま言った。誰もなんの反応も返してこないが、その一言が逃れられない託宣のように聞こえるのか、隊列の歩度が落ち、やがてホームに滑り込む電車のように、静止する。
 野原には幾重もの人の輪ができる。ところどころ、姫紫苑の群生が、青い空を乞うように人垣から突き出ている。
 男を囲繞するひとりひとりに、ひと切れのビスケットが手渡しで配られていく。
 モノクロ−ムの映像は隊列を組む女たち同様、静謐そのものだった。ビスケットを口に運ぶ手がそれぞれにたおやかである。パントマイムのようにときおり動きが止まり、その瞬間が異様に長く感じられた。
 ちょうどビスケットが一巡したとき、さっきの日傘の女が苔むした切り株に坐りこんだ男の前に立った。広げた傘を折り畳むと銀色にきらめくその先端を喉元に突き立て、
「あなたは仏のお面をかぶった鬼になった。演じ分けるほどの自分は、もはやない」
 と耳元でささやくように言った。聞こえるはずがないのに、気が伝播したように百人の女たちは声を揃えて同じ文句を唱和するのだった。念仏か呪文のように、
「仏だ、鬼だ! 鬼だ、仏だ!」
 女は日傘の先端をもう一度男に向けてきた。金属のその部分を男はなんのためらいもなく握った。真冬のフォークのような手触りに、背筋が震え立った。
 尾根伝いに山顛へという当てが急速に消えていくのがわかる。そのくせ、傘の先を杖のように握り締めた掌は、永久磁石に引きつけられたように、熱い。
「おまえの日傘は、天の誘いか」
「頭の上でくるくる回せるが、地を離れて飛ぶ、羽でも翼でもないわ」
 その一言で、男はもはや教祖ではなく、モアイの石像のようなものと化した。鉛の首輪、鉄のベルトをまとったように、躯は重かった。
 再び歩き始めた百人の隊列を男は漫然と見送った。
 傍らの日傘の女は、豆粒ほどになった隊列めがけて片足を上げた。着物の裾が割れて、静脈の浮き出たふくらはぎが覗いた。赤い鼻緒の下駄が宙を舞っていた。凧じゃあるまいに、いつまで経っても落ちてこない。 
 脱落、豹変、拉致、羨望、愛憎……思い浮かぶかぎりのニ字熟語は、不吉であった。(「夢の往還」其の壱)
 


「夢の往還」其の弐へ