日  録 ヤモリのいる家   

2011年10月1日(土)

朝出掛けにとなりのTさんが「小松菜と水菜はもう食べられますよ」と教えてくれた。
6時半頃帰宅するや否や懐中電灯片手に畑に降りてそれぞれ2、3株ずつ採った。
「小松菜ラーメン」(もちろんインスタント)と「水菜のサラダ」を作って食べた。前者は野生の青が汁にしみ込んでなかなか「ヤバイ」味がした。「ハマる」かも知れない。後者は、マヨネーズをつけて食べたが、苦みと甘みが口内で幾度か反芻されて得難い味である。

どちらもなじみの野菜だが、格別の味わいがあった。こんなに早く“初物”を食することができるのも果報としか言いようがない。

今日から10月、早々にまたしても食べ物の話題になるのは、日常の喜びと恐怖が合わせ鏡のように体の中に巣くっているからだろう。アルバイト先では帰るときに社員のひとりが、「3人もの人が日付の欄に“11月1日”と書いている。みんなどうしたんでしょうかね?」と証拠書類を見せながら教えてくれた。
「逸る気持ちはわかりますが。心ははやくも冬の隣にあるということでしょうか?」

そして、刷り込まれたように毎年思うのは「もう10月か」と嘆息したという石川啄木のことであった。


2011年10月4日(火)

昼前、電話が鳴り、ナンバーディスプレイを確かめもせずに受話器を取ると、これが宮崎の友人だった。何年ぶりになるのかわからないくらい互いにご無沙汰しているが、声を聞くとついこの前にも話したことがあるような近しさを感じてしまう。用件は1か月後に東京に行くので逢えないか、というものだった。

もう10年近く前に「パソコンもメールもない生活をします」と“宣言”したので、てっきりいまもそうかと思えばさにあらず。携帯の番号やメールアドレスを交換して、その日にはきっと会うことを約した。

高校教師を退いたあと、畑でいろんなものを作る生活をしていることは年賀状などで知っていた。
「そっちはいまどんなのを植えている?」
と訊くので、
「小松菜、水菜、カブ、大根、ブロッコリー……サツマイモもある」
と言うと、
「小麦粉持って行くよ」

農業の大先輩に対するような気分になった。旧友に逢えることも喜びならば、同時に日本での自給率が最も低い小麦(それも宮崎産!)を食することができるというのもとてつもない僥倖に思える。


2011年10月7日(金)

一昨日(5日)は11月下旬の気候だといい、一日中雨が降り続いた。ときに激しく降った。たしかに寒い一日だった。昨日(6日)は一転、秋晴れの好天気で気温も予報通り25℃くらいまで上がった。いまはもう秋にはちがいないだろうが、10℃近い温度差には仰天する。さて今日はと言えば……、

夜10時半自宅に戻って久しぶりの配偶者の料理を食べ終えても、頭のゆるやかな痛みは治まらず、鼻水もしきりに出るのでついに“葛根湯”に手を出した。

昼の仕事は冷蔵庫の中同然で、動き回っていてもときに体全体がぞくぞくすることがある。今日はそうではなかったのに、夕方国立へ移動中に頭が痛くなってきた。吹きさらしのホームに立てば思わず襟元を合わせたくなる。気温も日中に比べると随分低くなっている。
駅前でもらったポケットティッシュで鼻をかみつつ何とか3時間余の仕事をこなしてきた。

高熱が出て、無性にジュースを飲みたくなる風邪がいま流行っているという話を聞いたばかりである。こちらはそんなものに掛かっている場合ではない。そこで6、7年ぶりの薬頼みとなったのである。


2011年10月8日(土)

二、三日前のこと、朝9時頃近くの公民館の前にさしかかると玄関前の広場で高齢と見受ける十数人がラジオ体操をしていた。窓を開ければあの唄、あの掛け声が聞こえてくる。男女十数人はそれに合わせて整然と体を動かしている。

6時に目が覚めてラジオをつけたままうつらうつらしていると耳に届くあの唄にはっとすることがある。もう起きよう、と思うのである。そういう力があの唄にはあるが、実際に体操をするわけではない。

通り過ぎてから、最後にラジオ体操をしたのはいつだったか、と考えた。受験合宿で朝の散歩のあとにしたことがあった。あれはしかし“アカペラ”だった。みんなで掛け声を発して、ときどき順序や体の動かし方を間違えながらやった。リーダーに指名した中学生も頼りなかったなぁ、などと断片が甦ってくる。もう、15年以上前のことか。

はるか遠くの記憶としては、小学校時代の夏休みである。参加するたびにハンコがひとつずつ増えていった。会社ぐるみで体操の時間を設けているところで一時は働いたことがあるような気もするが、確かではない。そのいう会社の近くにいて、うらやましく感じただけかも知れない。


2011年10月9日(日)

昨夜郵便受けを開けてびっくりした。夕刊と一緒に出てくるのは『兆社』と表書きされた角形5号サイズの封筒だった。同じ名前で誰かが雑誌でも出したかと月明かりで透かしてみた。すると、この封筒は4,5人と『兆』という同人雑誌を出していた30年前のものだった。

いまはない「板橋区四ツ葉の住所と電話番号」の下に本当の差出人H氏の住所と名前がある。封を切ると、『加原一哉 句集』が出てきた。この日録でも彼から『宅俳便』が届くと折に触れ肴にさせてもらった。その10年来の俳句が精選されて瀟洒な本になった。 同人誌でも編集の任に当たってくれたH氏がまとめ上げたのだった。

これはタイムカプセルではなかった。H氏には「感激!」、加原氏には「いっそうの精進を」とメールした。いまに続く息吹を感じたからだった。

先の金曜日、女子大生が『チェルシー』を一粒差し出して「いかがですか?」 と言う。
ボクが二十歳の頃に発売されて、そのおしゃれさが一世を風靡したんだよ、なつかしいね。
ありがたくちょうだいして口に入れた。
「あ、本当だ、40周年と書いてます。わたしには、小さい頃、塾帰りに母が必ずくれたので、思い出のアメなんです」

この3日間にタイムスリップしたのは40年前から30年前までの10年間ということになる。いやぁ、もはや歴史であるか?


2011年10月10日(月)

体育の日が長い間なじんできた「10日」に戻った。6年ぶりのことだという。

祝日と制定された1966年から1999年までは東京オリンピックの開会式にちなんで10月10日が体育の日だった。2000年に祝日法が改正されてからは『ハッピーマンデー制度』が適用され10月の第二月曜日となった。
そのせいで10日前後をうろうろするわけだが、ウィキペディアには、先回10日だったのは2005年で、次回以降は2016年、2022年、2033年、2039年、2044年、2050年が体育の日=10日になる年だと書かれている。天体ショーの周期みたいで面白くないわけでもない。一方でお暇なことに情熱を燃やす人もあるものだと感心するが、こうやって書き写すボクも同類である。ちなみに、振れ幅は8日から14日の7日間(これは、あたりまえか)。

さてこの日、体育の日にちなんでなにか運動めいたことをやったかというと否である。2、3日前久々にEightに頼みごとのメールをした。その返事がこの日に届きはしゃいだ程度である。


2011年10月11日(火)

早朝富良野に行く配偶者を志木駅まで送り、家に戻ってきたのが10時前。休日だが、特別授業が入るかも知れないと言われていたので、連絡を待った。その5時間ほどの間、いっそなければのんびりできる、と思うようになった。それがよくなかったのか、授業ありのメールがやってきた。夏日というのはウソでなかった。4時に家を出たが、うっすらと汗ばむほどの陽気だった。

帰り道で、長い一日だった、まるで2日分を過ごしたようだ、と思った。そして、小6の生徒が修学旅行のお土産をくれた場面を反芻して、ひとりでにやにやしている自分に気付く。

生徒が何か用事がある風だったと言われて教室に行ってみた。
「宿題持ってきたのか」「質問でもあるのか」と畳みかけると、
「もっといいことだよ」
と袋に入った新幹線のぞみを模したボールペンをカバンから取り出して、くれたのである。その名もずばり「ペン鉄」。 なかなかしゃれたデザインである。
「ところで宿題は?」
「忘れました。そんな時間ないですよ」
「これはありがたくいただいておくけど、宿題はあさってまで」

こうして再現すると“教師としての悪しき業”が感じられるようだが、実際はもっと冗談ぽく言って、そばにいた同僚の笑いを誘い出すことにも成功しているのだった。


2011年10月12日(水)

柘榴がいくつか実をつけている。いつもより数は多いが小振りである。そのうちのひとつは派手に割れて赤い実が飛び出していた。切り取って、飾るつもりで家の中に入れたところ一匹の虫が艶々と光る粒を縫って飛び出してきた。一瞬驚いたが、そうか先客がいたのか、とすぐに諦めて玄関先の椅子に立てかけておいた。

柿は数えてみたところ4、5個しか成っていない。まだ青いから、赤くなる前に何個かは落ちてしまうかも知れない。去年は「成り年」だった。たくさんの赤い実をめぐってはカラスとの競争だった。今年は数が少ないから奪い合いにはならないだろう。もっとも、くれてやってもいいと思っている。

ところで『図書』に連載されていた坪内稔典の「柿への旅」が完結した。「柿くえば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の正岡子規から、高村薫『照柿』まで筆は伸びやかに運ばれていった。
戸数80の田舎には柿の木がいっぱいあった。そして誰に教えられたわけでもないのに、あれは何、これは何と品種の名前(通称)を当てることができたのにいまやすっかり忘れてしまっている。
氏は自身の興や郷愁に誘われるままに調べ尽くし、尋ね歩き、その様(連載30回)は圧巻という他なかった。一端なりとも見習うべきだと思いながら毎回読んできた。


2011年10月14日(金)

日付が変わる頃、洗濯をしはじめ、シャワーを浴び、リンゴなどを食べていると、くしゃみが続けて起こり、やまなくなった。
こういう“連続くしゃみ”はボクの十八番であって、その高音とともに家族の顰蹙を買ってきた。いま、ひとりなので、「もう、やめて!」という抗議が聞こえてこないのが残念である。窓を開けて外に響かせてみるのも一興とは思うが夜中ゆえに実行はしない。

2日前、高校の同級会の案内が届いた。「熱海で一泊」という画期的なものであり、幹事Mの案内文によれば、彼の勤務先の保養所であるらしい。中学の修学旅行で熱海に寄った記憶がある。中学生になぜ熱海なのか、いまなら考えられないことだろう。その後社員旅行で一回行ったことがある。それ以来、3度目の熱海となる。来年2月が楽しみである。

また今日は、松本の実家と都内の自宅を行き来しているかつての同僚から自家製の新米(コシヒカリ)が届いた。ここ5,6年毎年送ってくれる。格別のおいしさで、この季節の大きな楽しみとなっている。
それもさることながら、長文の手紙が同封されていて、丸山健二の本などを参考に「庭造り」に邁進している、座右の書は「李白・杜甫」だということが書かれてある。格調高い文章と味わい深い内容に感動した。

このふたつで、「あぁ、秋だな」と感じ入る。


2011年10月15日(土)

明け方に、イギリスからフィンランドに行こうとしている夢を見た。ドーバー海峡を渡ればすぐだから心配ないよ。いや、それはちがうか。だいたいどこにあるかも知らないのになぜフィンランドなのかが疑問であった。

起きてから何げなく机の引き出しを開けると、十数年前に合唱団の海外演奏旅行に行った卒業生からの絵はがきが入っていて、「フィンランドでは、サウナに入ったり、湖にとびこんだりしました。自然がたーくさんでもっといたかった」と書かれている。夢解きができたみたいで、逆に物足りなかった。
この絵はがきの写真はフィレンツェの夜景だった。
「それではまたお世話になることがあったらよろしくお願いします。お世話にならなくてもよろしくお願いします」と結ばれている。また、笑いを誘われてしまった。mixiでいまも近況を知ることができる彼女、当時から、こんないいセンスを持っていたんだな、と感心もした。

それにしても、森と湖のフィンランドとは、まさに見果てぬ夢であろうか。


2011年10月17日(月)

いまをさかりに咲き誇っているコスモス、それにムラサキシキブの実や萩を切り取って花瓶に活けた。玄関にはそれぞれ個人的な思い入れの深い、種から育ったバジルと清見オレンジの幼木、ゴムの木が所狭しと並んでいるが、正面の一角だけは完全に秋色となった。

昨夜天井近くの壁をゴキブリが走っていて、家に帰り着いたばかりのボクを迎えてくれるのだった。ゴキブリホイホイを進もうとしていると思われる先に手ずからかざすと、難なく入ってくれた。逆さまになってもがいている。せっかくのお出迎えだったのにちょっと手荒にすぎたかも知れない。これも秋色のひとつだった。


2011年10月18日(火)

新米(コシヒカリ)のお裾分けを娘のアパートに届けて、その足で国立へ。急遽授業を頼まれたためである。貴重な休日が消え少し残念な気持ちもあったが、行く途中は気分がよかった。さわやかな天候のおかげもある。それに較べると帰り道のあのゆううつさは何なのだろう、と考えた。

11時前に戻って夕刊(朝日新聞)を広げると山本かずこさんの詩「還暦の鯉」が飛び込んできた。一節を引用させていただくと、

きょうのは、還暦の鯉だった。
生きているとおもった。
生きているさかなのにおいだ。
釣り糸の先で
逃げたくて、はねている。


同名の井伏鱒二の随筆は未見だが、この贔屓の詩人の“ことばたち”はすとんと腑におちてくる。

日付が変わる頃になって、新米を送ってくれた元同僚にお礼の手紙を書いた。そのなかで懐古した。よく生きたとき、まわりにはいい人たちがいっぱいたことが、いまならわかる。人は人によって後押しされたり、堰き止められたりする。人は人次第である。そんな道学めいたことをつい書きたくなって書いた。
新米に同封されていた手紙に負けないほどの長さになった。

引用の詩のように“ことばが届く”ことが嬉しいからであった。


2011年10月20日(木)

禁煙して1年9ヵ月ほどになるが、ついにそれを破ってしまう夢を見た。はげしく何本も吸い続けたあと「あれ、禁煙していたのではなかったか」と気付くのである。それでも、また一本、また一本と吸い続ける。夢のなかの時間はとても長いと感じた。 その故かこれが現実ではないか、と錯覚する。せっかくの禁煙が、泡ならぬ煙とともに消えたか、と残念に思っている。そのくせたばこの味、効用は現前しない。そこはやはり夢であった。夢でよかった。


2011年10月21日(金)


“夢の往還”の一つとして書いた「ハンプティ・ダンプティ」を改稿した(「ハンプティ・ダンプティ(または「尊大」の罰)」)。きっかけはこれは「小説」になっていないという痛い自覚である。「生々しすぎて」読み返すたびにいやな思いがするのだった。書いた! 読んだ! と叫び出したいほどの開放感がない。想像力の乏しさにあきれかえりながら書き直してみて、多少はよくなったかと思うがまだ?マークはつくかも知れない。


2011年10月22日(土)

今夜やっと、3ヵ月来の懸案だった合い鍵ができた。と書くとやや大げさだが、合い鍵ひとつ作るのにこんなにも難渋するとは思いもしなかった。隔世の感がある。(これも大げさか。)
顛末はこうである。

近くのホームセンターで「複製キーをコピーすると誤差が広がって合わなくなる可能性があるので、作ることができません。マスターキーをお持ち下さい」と断られたのが発端だった。別のホームセンターでも、同じ理由で断られた。
合わなくてもかまわないから作ってよ、あとで文句言わないから。
いいですよ。合わないときは、持ってきて下さい。直します。
昔はこんなものではなかったか。鷹揚なものであった。それともいまや、保安・防犯上のしばりでもあるのだろうか。「コピーからコピーへ」は御法度とか?

ネットで合い鍵を作成している“お店”を検索すると、ごく近くで一件ヒットした。複製キーでもOKだが、その型の在庫がないので取り寄せになるという。それが4、5日前のことであり、この朝「鍵が入ったのでいつでも来て下さい」との電話連絡を受けた。
「伺いましょうか」とむこうの女性が言うのでびっくりした。合い鍵一つのために(出張費用はかからないという)そんなこともしてくれるのかと思ったが、こちらから行きますと言って電話を切った。

仕事が終わってから「お店」をめざした。新しい住宅がぎっしりと建ち並び、それらを縫うように狭い道がくねくねと続く。詩人の川岸則夫さんがいっときこのあたりに住んでいて、何度か訪ねたことがあるが、おもむきは激変している。近くに雑木林が広がっていたように思うがいまや面影はひとつもない。三世代住宅なのか、屋根のとがった斬新な設計の三階建ても多くあって目を引かれた。

目標の「坂戸グランドホテル」に着いて電話すると、ホテルから十数bの「お店」の位置を教えてくれた。あと10分ほどで戻るからそこで待っていて下さい、と言う。

待つこときっかり10分。半ば想像した通り「お店」が戻ってきた。ワゴン車に道具類一切を積み込んだ移動サービスだったのである。若い夫婦がやっている「住宅・車・金庫の解錠/住宅の鍵交換」の、その名も『かぎ福』というお店だった。渡された名刺には“年中無休・24時間受付”とあった。

「新しい住宅ばかりですね」
「私たちのこちら側は前からあるのですが、最近向こう側にいろいろな会社が入り交じって家を建てているのです。合わなかったらまた持ってきて下さい」
しゃきしゃきした奥さんだった。鍵を作成してくれたご主人は物静かな青年だった。商売として成り立つほどの需要があるのかさすがに聞きそびれた。こちらは急ぎの案件ではなかったが、広い世間には切羽詰まった『鍵問題』があるのかも知れない。


2011年10月23日(日)

今日はやや暑いくらいの日だった。寒い日が何日か続いたので、このまま一気に冬に向かうかと思いきや、そうでもないようだ。毎年この季節になると玄関前に出している龍眼の木をいつ中に入れかで迷ってしまう。10℃をすこし越える日が何日か続いたときよほど入れてしまおうかと置き場所の選定までしていた。しかし、今日のような日があると出したままでよかったと思ってしまう。この木は外で風にそよぎ、雨に打たれている方が勢いが感じられるからだ。見る方にも、それが伝わってきて元気になれる。仮に中に入れても、暖かい日は外で“日光浴”をさせるほどだった。

夜テレビにて小津安二郎の『秋刀魚の味』(昭和37年)、つい引き込まれて、最後まで観てしまった。いずれの人も香気を漂わせて映っている。とりわけ岸田今日子の笑顔がよかった。これが監督“小津安”の力なのだろうか。


2011年10月25日(火)

目次(メインページ)の写真をほぼ10年ぶりに替えてみた。といってもよそ(広島県観光ホームページ)から拝借してきたものである。ネットで三段峡の写真を探しながら思ったことは、行きたいなぁ、ということである。しかし今日が4日以来21日ぶりの休日となったような身には夢のような思いつきなのだろう。

はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり
ぢっと手をみる(石川啄木)

こんな歌がふいに口を衝いて出てきた。自虐的にいっそ「…ならざりき」(過去形・字余り)とすべきか、と思ってみたりするが、とりあえずは久々の休日を“明るく元気に”送ろう、と考えた。

で、近くの友人と懐旧だけではなく、本当の老いを迎える前に何をしようかとお互いの考えを披露しあった。これはなかなか楽しいいっときだった。

家に戻ってからは向かいの家で本格的な生け垣の剪定をやっているのに触発され、道路に落ちている柿の落ち葉を掃きはじめた。なにげなく裏に回ると、いつもパソコンに向かっている部屋と道路との間の荒れ様に茫然とした。(部屋から外を見たことも久しくなかったのである。)

左から順に雪やなぎ・山吹・南天・合歓の木、と続くが、ひと夏の間にいずれも背が高くなり、こんもりと生い茂っている。それらを縫うように笹竹もあちこちから延び、さらにつる性の雑草が木と木を継いで絡まっている。名は知らないが実生の樹木も2、3本あり、この前見たときよりもいっそう高い。その様は、道路から眺めると幽霊屋敷と見まごうばかりである。

高くはみ出した部分を植木バサミでばさばさと剪っていった。合歓の木もノコギリで上の枝を落とし、2メートルほどの高さに縮めた。ちと早い冬支度のようになった。表に置いていたプランターや植木鉢の一部がこの間の台風で飛ばされて裏庭にある。
「台風? いつのことだ」
いま頃その後片付けかと苦笑ものであった。ともかく裏庭に回る道もでき、見晴らしもよくなった。汗をかくほどの仕事となったが、そして虎刈りではあるが、やってよかったと思ったのであった。

シャワーを浴びて今し方の“仕事ぶり”を上から眺めるのも一興かと思いつつ着替えを取りに二階へ行くと、ヤモリが一匹畳のうえを走り回っている。相手は家守と書くヤモリである。殺すのはもとより、捕って放り出すなどは無粋というものである。あいさつこそしなかったが、そのまま走り回るにまかせておいた。すると、ボクより先に階段をさっさと下りていき、行方は杳としてわからなくなった。


2011年10月26日(水)

また、明け方近いある夜には、ベッドに横たわりながらふと障子戸を開けるとガラス一枚を隔てた向こう側に丸々と太った猫が寝ていた。正確には縁台に放りぱなしのこわれたPCモニターの箱の上にいたから目線の高さがほぼ同じであった。しかも、顔を胸に埋めるような恰好がどこが自分の寝姿に似ている気がした。

ガラス戸をこんこんと叩くとむくっと起き直りこちらをじっと伺いはじめた。しばしにらみ合ったあと、起こされて不機嫌そうな猫は足早に逃げていった。
が、こんな程度では引き下がらないのが猫であるのだろう、以後ときおり同じ場所で見かけるようになるのだった。見知らぬ猫と隣り合わせで寝ている気分は、なんとも奇妙なものである。

やれ幽霊屋敷だ、賤が屋だとあちこちで言い立てていると、日頃の憂さが晴れる以上に、あちこちから意外な動物が寄ってきてひとりではないということを教えてくれる。実際、ボクは友に、人に恵まれている。

昼間、ことしのモミジは? と二階から見下ろせば、夏前に枝を切り落としたせいか、葉が少ない。いま、少し黄色くなりかけているが、少ないなりにかつてのような紅葉が見られれば、もう賤が屋だなんて言ったりしない。


2011年10月27日(木)

午前8時前、PCモニターの表示では8℃である。実感としてそんなに寒いという感じはしないが、はじめてひとけたとなったのは記念すべきことだ。昨夜、東京では“木枯らし一号”が吹いたそうである。


2011年10月28日(金)

駅から駐車場までの約4キロ、もう歩くのはやめよう、と思いながらまた歩いてしまった。東所沢駅周辺の地理に少しは明るくなったのでこの前とはちがう道を歩いた。その方が断然近いはずだとの確信があったのは歩きはじめた直後だけで、すぐに方向や距離の感覚に自信がなくなっていった。

殊に住宅街に入ってしまうと“これでいいのだろうか”と不安が兆し始めた。文字通りゆきずりの他人が午後10時を過ぎた住宅街を歩くのはなんとなし気が引けるものでもある。

不安が強まると今度は、とにかくいまなお往来が激しい国道(車の音が聞こえる)に出ることだ、と弱気になった。そのためには曲がってはいけない、いや曲がってもいいが見当をつけた方向から逸れないようにほぼ直角に曲がらなければならない。

バス停で次の停留場が「亀ヶ谷公園」というのを確かめてかなり急な坂を下っていくと、その公園に突き当たったので右に曲がった。さらに、数b下を音立てて水が流れる柳瀬川沿いに進んでいったが、その道は曲がりくねっていた。

とんでもないところへ連れて行かれそうな気がしたが、あとはカンだけが頼りだと開き直って、昔はきっと谷底だったにちがいない川沿いの道を歩いて行った。数分後、見覚えのあるコンビニの看板を見つけたときは正直ほっとした。
その先は、車で通るいつもの道だった。車のときよりも意外と長い時間がかかる、と改めて思った。
“目的地”に着いたのは1時間後で、あまり変わりはなかった。



2011年10月30日(日)

昨日の朝、中学・高校時代の同級生から電話があった。
「明日、日本橋から東海道の宿場を訪ね歩く旅に出発するので一応連絡をしておこうと思う」と。

30日午前9時に日本橋を発ち、東海道の宿場を訪ね歩く「ウォークラリー」(主催は10周年を迎えるNPO法人:東海道ネットワーク21

その日は川崎、次の日は平塚……というように25日かけて53の宿場に足跡を残していく。参加希望者はどこからでも、何日・何時間でも参加できる。友人によれば、土日は人が増えるが平日は少ないと予想される、という。

それにしても、のびやかな企画である。反面、下準備や参加者の募集など大変なこともいっぱいありそうである。
京都に着くまでの25日間伴走車に乗って同行するというのも、優雅でうらやましいかぎりである。が、しんどそうである。
東海道が好きで、歩くのが好きで、人間が好きでないとそこまではできないだろう。

そんな友人に感服するが、彼は土山宿の旧街道に面した自宅で茶房「うかい屋」を開いている。


2011年10月31日(月)

午前4時を過ぎたところで目が覚めて、腹ごしらえをするというよりもただ口がさびしいだけのことで、パンやバナナを食べたあとに、10月最後の日記に向かっている。すでに11月1日である。

目下東海道を京都に「上っている」途中の友人との電話がきっかけになったのか、この日は朝ひとり夜に4人の計5人の同級生と電話で話した。同級会名簿を頼りに電話を掛けていった。用件は来年の熱海での同級会についてだが、それはむしろ口実で、お互いの近況を伝え合う、なつかしさ溢れる電話となった。

夜の4人に至っては25年前の同級会以来である。声というのはあまり変わらないのだろうか、話しているうちに、あぁやっぱりあいつの声だと変なところで感心していた。
千葉に住む女性は、合唱団に所属していた。話すときの声は少しハスキーで魅力的だったこともだんだん思い出されてきた。それを伝えると、「高校時代のソプラノがアルトに変わったのよ。義父母を介護して見送ったこの10年も、合唱だけはずっと続けていたの」と言っていた。20分も話して、猶物足りなかった。

やはり関東圏に住む同級生は、名乗ると「ああ、案内状が届いていましたね。でもいますごく忙しくて、帰りがいつも11時過ぎ。来年のことは予定が立たないのです」と本人に代わって一度も会ったことがない奥さんが応対してくれた。ばりばり現役で働いているというのに驚き、思わず「勤め先はどこ? 何をしているの?」とつい不躾な質問をしてしまった。それにも快く答えてくれた。10分も話して、寡黙だった本人なら言わないだろうことも知ることができたのであった。


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