ハンプティ・ダンプティ(または「尊大」の罰)


何が気に入らないのだろうか、といろいろ考えてみた。名前か? たしかにN氏は私の元カレと同じ苗字である。癪ではあるが、こんなありふれた偶然が決定的な忌避の理由にはならない。もしそれならば、子供じみている。

姿形? Nはずんぐりむっくりであるが、見かけによって
人を判断してはいけないことぐらい弁えている。話し方、笑い方、泣き方、それに物の食べ方なども同断である。

するとやはり、人間性になるのか。
Nは尊大な男である。威張っている。中身はおそらくない。中身のない者にかぎってありもしない権威を振りかざす。人の欠点を過大に言い立てるくせに自分のことは省みようとしない。尊大とは、そんなパターンの人のことだとわかったばかりであった。私とは金輪際反りが合わないだろう。

Nその前に出会ったRとよく似ていたのである。学生時代フランスに留学したことと、小中学生相手の塾を始める前の年に県会議員選挙に出て落選したことがRの自慢に思えた。私はその塾でようやく講師の仕事に就くことができた。失業期間が長かっただけに正直ほっとしたものだった。

「きみぃー、少しは深刻に考えたまえ。にこにこ笑っている場合じゃないよ」
突然説教を始めた。その口調は悟りすました道学者のものだった。
よく見ればRは椅子から立ち上がっていたが、坐って話していたときと同じ目線だった。

思えば居酒屋のカウンターに並んで坐ったのが運のつきだった。文人として有名な市長のことを「飲み友達」だと言いはじめたときに先に帰ればよかったのである。「民主党とけんかして公認されなかった」ことが落選の理由だと言ったが、それはおそらく違う。人徳がない、つまり人間性の問題だろう。「尊大」のなれの果てに思えた。退散するに如くはない。
「待ってくれよ。もっと話そうよ。逃げたら首だ、首だよ」
Rの金切り声が追いかけてきた。

N氏のことを私は密かに「ハンプティ・ダンプティ」と呼ぶようになっていた。『不思議の国のアリス』にも登場する、あの寓意的な人物である。アメリカでは、落選確実の泡沫候補者のことをそう呼ぶということはあとで知った。N氏はそのことを感じ取ったかのように、じわじわと私を攻め立ててくるようになった。
「あなたに関して、苦情が殺到しているんですよ。言っていることがよくわからない。これは致命的で、更迭しかないですよ」
会議が終わったあと、突然言い出した。花はすでに終わっていたがまだ寒い日が繰り返しやってくる4月の初め頃である。生徒とはいい関係を保っていたのにそんな苦情があるなんて予想もしなかった。N氏はこれ幸いとばかりに、風評を膨らませ、職制上の権威を笠に着て私を追い出そうとしている。早晩自分の生徒に「あのバカ女!」と私のことを笑いのネタにするのも目に見えるようだった。そういう下劣な場面を幾度か目撃したことがあった。すると苦情というのも捏造かも知れなかったが、確かめる術はない。
いずれ高転びするよ、落ちたら二度と這い上がれないですよ、と呪うのが私にできたただひとつのことだった。
私はまた、職なしの独身女に戻った。仕事運というよりは、別の意味で男運が悪いのにちがいない。

「尊大」とは反りが合わないわけだから、当然の成り行きだとも思った。それから一ヵ月ほど経った頃N君に電話をした。
「あなたと別れて一年が経つけど、会う人会う人がことごとくヘン。あなたのほうがずっといい。なぜ?」
「ほめられているのかな? それとも、単なる愚痴を言おうとしているの?」
「両方」
「オレいま、明日の準備で忙しいので長話はできないが、ひとつだけ言いたいことがあってずっと胸にしまっていたんだ。愚痴聞く前に、言っていい?」
「どうぞ」
「うーん、そうあっけらかんとオーケーが出ると、かえって言いづらいな。やっぱりやめとくよ」
「わたしのこと、尊大な女だと思ってた、とか?」
「また、こちらから、電話するよ」
元カレのNは慌てて電話を切った。

その夜、右足の臑からは貝割れ大根、ススキやエノコログサやヒエなどの雑草が生え出してぐんぐん成長し始めたのだった。引っ張ると抜けるが、大きくなったヤツはかすかに痛い。もっと大きくなったものは相当に痛い。でも我慢して抜かねばならない。貝割れはともかく、イネ科の植物にからだ全部が埋もれてしまう前に。むごい夢であった。
(「夢の往還」其の九)


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