母の手紙
「明けましてお目出度うございます。
お元気でよい年をむかへられたよし、何よりと嬉んで居ります。
こちらも元気で今日から仕事が始まりました。○○は信州の方へスキーに行って居ます。
さて今年のお札さんを送ります。
この手紙の日付が、平成六年の一月六日であり、下に書き写すのは、正確ではないがそれから十何年は経っていると思われる。
「明けましてお目出度う
元気で新しい年をむかえられたそうで何よりです。
私も自分の体がやっとです。
では又 体に気をつけてがんばって下さい。
神様の御札様
大切に朝夕
拝みなさい 母より」
当て字があり、行分けも自在だが、そのまま書き写してみた。その後の二、三年は、帰省した姉に託して、送ってくれている。もう手紙は入っていなかったが、専用封筒の表書きはまちがいなく母の筆跡だった。
母は平成二十二年の12月27日に、誰もいない食卓で椅子に腰掛けたまま逝ってしまったので、これが、最後の手紙となった。
十八歳のときに別々に暮らし出してから、四十数年が経っている。
学生時代に一度、長い手紙を送った覚えがある。比喩とはいえ「内なる親を殺せ」などという言葉が、驟雨のように降り注いでいた。そんな中で、勉学というより、学校という権威からなぜいま離れていくのか、その理由を母にだけは伝えておこうと思ったのだった。
父親は「自分の思い通りにすればいいだろ」と言っている、と母はそのときは自分の意見は語らなかったが、何年かあとに学生時代の友人を連れて帰ったときにこっそりと「あの人はちゃんと出ているから、いい仕事に就いているんだろ?」と少しうらやましげに言った。
二年間いたフランスから戻ったばかりの友人は、進路を決めかねてそのときは失業中だったので、「彼はこんどぼくと同じ職場で働くことになっているんだ」と出まかせを言って母を安心させたのだった。
路面電車の停車場に立つ父の姿がよく夢に現れる。深夜に近い時間である。昔の軍人が着ていた外套を羽織っている。二十五年前に父が死んでから一年間くらいは同じ場面の、そんな夢を何度も見た。
母は、奥の座敷に坐って、泰然としている。和服姿である。動けないのか、弱ってしまったな、自分のことでせいいっぱいなどと弱音を吐いていたからなぁ、などと哀れの情を持ってじっとみている。
すると、さあぁ、出かけるぞ、ともう大人になった息子の手を取って土間から外に出て、急ぎ足で歩き始める。若い頃の母親に戻っている。
その夢を見た昨秋、「私も自分の体がやっと」と書かれた最後の手紙を読んでからでも二年以上経っているが、その一節だけはずっと頭にこびりついて離れなかったのだろう。
悲しい報せは仕事先に舞い込んできた、唐突に。 (「夢の往還」其の八)