にせタクシー

 目覚めたすぐあとに、ババ抜きみたいなものであるのだろう、と不意に思った。二人または数人が交互にカードを引き合い、同じ数字があれば一対にして場の中に投げ出していく。持ち札がなくなった者から順に降りていって、相手のない一枚のジョーカーを最後に手にした者が負けとなる。実際のトランプゲームでは、ババとはそのジョーカーをさすはずだが、こたびそれが何の喩えであるのか、はっきりしない。

 駅前ロータリーに入って、いったん車を停めると、後部座席のドアが開きR子が乗り込んできた。まなじりを決した、深刻そうな顔がバックミラーに映り、「東京へ」と言う。まちがいなくR子なのに声の調子がどこかちがっている。透き通る高音ではなく、くぐもったような低音である。顔といい、声といい、こんなR子ははじめてだった。かつてのR子は、いつもニコニコしていた。冗談口も多く、何度も、心底から笑わせられることがあった。

 振り返るきっかけを失っていた。R子はタクシーと勘違いしたまま、浅く掛けた後部座席から身を乗り出すようにして、「あの人のところへ行かねばならぬ」と言うのである。はっきりと聞こえたが、ぼくに言ったのではなかった。かといって、ひとり言でもないのだった。いまのR子にとってぼくは、たまたまのタクシードライバーでしかない。

 山里にあるインターチェンジをめざそうとするが、この街の繁華街をなかなか抜け出すことができなかった。車は何度も河口付近に戻ってきた。その道路は桟橋の突端のようにもみえた。路面に向けて、間歇的に波飛沫が降りかかる。それにたぶらかされてハンドルを切り損なえば、水面に突っ込んで行くような気がする。走行距離7万キロのこの車は、タイヤの摩耗が著しくて、雨の日にはスリップしやすい、高速ではバーストの危険もある、早く取り替えるようにと言われていた。ディーラーの忠告は、もちろん商売っけもあるが、古いタイヤが夜中にパンクして往生した経験がある身には、十分現実味のあるものだった。後悔とともに不安がよぎる。しかしあと戻りはできない。何年かぶりに再会できたのだ、正体がわかったときのR子の仰天する顔をみてみたい。そのためには、走るしかなかった。

 やがて車は桟橋のようなその道路を逸れて路地に潜り込んだ。二階分の高さの建物(鉄を扱う工場のように思われる)の前に車を停めた。左右に開いた巨大な鉄の扉の向こうで、いくつかの黒い影がうごめいていた。R子は、車を降りると、足早に扉をすり抜け、光りの届かない建物の奥に消えていった。黒い影のひとつに紛れてしまって、判別がつかなくなる。「おーい!」ぼくは叫んだ。
灰色の闇のなかから、その声が撓められて入り口付近に舞い戻ってきた。新たな不安が首をもたげる。R子が消えてしまえば、正体も、仰天も、起こり得ないのであった。
   
 数年前まではしょっちゅう顔を合わせていた。部署の中の若者らを呼び集めて酒を飲んだとき、「大好き!」と誰はばかることなく抱きついてきたことがあった。控え目な仕事ぶりのR子からは予想もできない行動だった。こうなると中年にさしかかった男は脆い。部下の一人として覗いている分には平静を保てたものの、覗かれていることがわかると、汗腺から目には見えない水が噴き出して、その分、気が崩折れていくのだった。それが、ある種の快感でないこともなかった。

 覗く、覗かれるなどという表現はどこぞの小説の受け売りである。が、小学生の子供がふたりいる男には、あれはこういうことかと、納得のゆくことが多かった。R子に何かをしてあげたい、と毎週のように思ったものだった。それは一緒にする食事であったり、小さな贈り物、つまり、偽物と分かっている誕生石、江戸好みのストラップ、などだった。その度にR子は、こころなしか躯を近づけてきて、嬉しい、と言うのだった。男の振る舞いのなかには、もっとオレのことを見てくれ、という希求めいた思いが宿っていたが、R子は、そんなことには頓着する風もなく、ふたりきりのときは“上司でもない、恋人でもない”という不思議な距離感、ある意味で自然な自分をさらけ出していた。面と向かってR子に言えたことは「君といると、心が和むね」だけだった。その陳腐さはいま思い出しても、顔が赤らむ。そんなこともあって、過ぎ去った疫みたいなものと思いなしていた。

 もはや夕暮れであった。小柄なR子が傍に立っていた。車に凭れかかって、月明かりをたよりにぼくはタイヤを点検する。左側の後輪にはスリップサインが見え、表面に走るヒビも二本や三本ではない。素人にだって、この危うさは理解できる。
「いけるところまで行ってみますが、首尾よく辿りつけるかどうか、わかりませんね」
 まだ君を、見捨ててはいないからな、当時まるで天の声のように発せられたT氏の言葉が甦った。二十年ののち、廻りめぐって、同じ言葉を自分が使うことができるのは、にせタクシーの運転手だからである。
 しかし、遠くに行ってしまった恋人に思いを届けたいように見えるR子は、ふたたびこの車に乗ろうとしない。
(「夢の往還」其の七)


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