広島ナンバー

 その橋にさしかかった拍子に砂塵が前方を閉ざした。河川敷の赤土が北風に煽られて竜巻のように舞い上がり、橋全体を包み込んでいる。急にスピードを緩めた車がライトをつけはじめると、ひとつひとつの砂の粒がシャボン玉と見紛うほどに膨らんで見えた。
 パクパクと金魚のように口を開けて飲み込んだらどうだろうか。喰えるシャボン玉、実際そんなものを間近に見たことがあったのである。不思議な光景だなぁと思い、「おいしいの?」と訊くと、
「当たり前だよ。でなきゃ、食べないよ、バーカ」
 空を舞うシャボン玉を、スキップするようにして次々と口にくわえ込んでいく少女は、悪態をついた。いくつかのシャボン玉は少女の背丈を超えて舞い上がり、やがて快活すぎる明るさの中に消えていった。あれはたしかに五月だった。闇を孕んだような陽光が降りそそいでいた。  
 わたしはもうここで長い間立ち竦んでいる。100メートルにも満たない橋がもはや橋の体をなさず、丸太棒のようであった。下は深い渓谷にも思われた。一歩踏み出せば、足の踏み場が消えて真っ逆様に墜ちてゆく。そんな気もした。あのシャボン玉の時だって、
お姉ちゃんも食べる? そんなあまやかな言葉を期待したわけではなかったのに、その小さな公園を通り過ぎるとき、脇腹の奥深くで雑草の棘にいたぶられるような痛みが起こっていた。
 欄干に背をあずけてわたしは両手を広げてみた。わたしは小さい。おまけに年々縮んでいるのがわかっている。すると背丈と同じと言われるこの一尋も短くなっているのだろうか。ずっと以前、まだ大きかったわたしを、こんな橋の袂に置き去りにした男がいる。忘れ物をしたわたしのために、数分前に出たホテルに戻って行ったまま、帰ってこない。祖母の形見の時計も戻ってこない。わたしのいくつかのあやまちを、自分のこととして引き受けると見得を切った男である。優しさはいまとなれば臆病であり、義は虚勢である。としても、その男は、なつかしい。
 いつしか砂塵が消えた。行き交う車を見るともなく見ていた。まさかその男を待っているわけではないですよね、と自分に問いかける。いいえ、そのまさか、かも知れませんよ。男の車は、すぐに分かる。

(「夢の往還」其の六)


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