時 間

 日没が迫っていた。畦道らしきところを背丈の伸びた草木を揺らしながら手を握りあって歩いてきた。田園風景には不似合いな頑丈なビルに着いた。一階のドアを開けて三和土に入ると、鍵を掛ける間も惜しく感じられ、背後から抱きかかえた。布地越しに、躯の熱が溶け合っていくのが分かった。敷居を越え、畳の上にもつれるように倒れ込んだ。
 小振りの乳房も肉のうすい太腿も驚くほどの弾性を秘め、うっすら湿り気を帯びた掌は白い肌を這い回りながら暁闇を記憶していく。閉じた花弁を開いて雌蕊に指先を当てると、聞き覚えのある声が流れはじめた。  
  組み伏せるような恰好になっていたが、静かな女体だった。肩に回した腕にあるかないかの力が感じられた。足を挙げることも爪を立てることもない。呻き声もどこか息を殺したように陰にこもっている。刻々と音が消えていくのかも知れない。  

 
誰と特定できるまでにはかなりの時間が必要だった。  
 友人の結婚式に出るために西下する途中、新婚所帯を訪ねたことがあった。新しい生活ぶりを見てみたいと思った。目的地からは随分迂回して、あまつさえ海をわたることになったが、都落ちしたKに逢いたい一心だった。ふたりで丘の上の公園を歩いた。繁華街に出て名物のうどんを食べた。遅すぎた逢い引きのようだった。手作りの夕食をご馳走になったあと4、5時間して夫が帰ってきた。すでに真新しい布団にはいって眠る準備をしていたぼくを皮肉な目で眺め回した。多少の疑惑か嫉妬が混ざっていたのかも知れない。
 それはしかし20年以上前のことである。その後夫の勤務に付き添ってあちこちを転々として、その間に不仲がきわまり、五年ほど前に別居生活に入った。
 呼ばれて新築間もない一軒家に行くと、Kは手を握らんばかりに迎えてくれた。谷底を平らにして建てられた家だった。慰謝料で買ったのよ、と舌を出した。こどもは? と訊くと「もちろん同居してるわよ。あんな不実な男に渡すもんですか」思いの外きつい言葉が飛び出していた。
  容姿は昔のままのところが多かったが、歳相応の窶れも感じた。長い指の関節が節くれだっていた。
「触っていいか?」
「優しくくるんでよ」
「まだまだ柔らかい。安心したよ」
 また逢おうなどという約束はしなかった。ふたりとも、そんなことをしたら、罰が当たるような気がしていた。指先に、甲の皮膚のぶよぶよした感触だけが残った。それが三年ほど前のことだった。
「怖いものがひとつだけあるの。当ててみて」
 夢の中でKが言っているような気がした。
「時間、か」
「どうしてわかるの? 取り戻したいと思っているんでしょう」
「それは違う。君を抱きながら、時はすでに自在だよ」
「うそつき!」
 
ふたつの動きにつれて躯が畳を摺って頭は板の間にかかっていた。
「待って! 冷たいわ」とKが言った。
  板の間には水滴が光っていた。途中で行為をやめて、髪を拭いた。意志の力はそこで途切れた。

「髪が濡れただけ? せっかくできると思ったのに」
 からりとした声で眼が覚めた。これは、幻聴ではなかった。紛れもなく、Kのものだった。
(「夢の往還」其の伍)


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