非時の宿

 窓の外に男がいた。ふらふらと、浮遊していた。足が地に着いていないからあたりまえだが、酒に酔えばこうなるという見本みたいな動き方だった。
「タケダさん」とぼくは呼び掛けた。
 男は、額に当てた右手を水平にして、大きくて、澄んだ目を瞠いた。とびっきりの美青年だけあって、仕草が優雅だ。
「どちらさまでしたっけ」
 声もまた美しい男は、ぼくたちに向かって、漂ってきた。
「あれが、タケダマサヒコだよ」
 ぼくの躯を楯にして、不安げに窓の外を見遣っているKに、こっそりと教えた。Kは知っているよ、というように数回頷いた。
「空を歩いているの?」
「たいしたもんだ」  
 まわりの景色はあってなきが如しだった。ぼくはKの手を握った。Kはふーとため息をついた。骨を掴んでいるように儚げな手だが、温もりは本物だった。
 この娘にはどんな花が似合うのだろうか。二十歳の誕生日に、自宅に花束を送りつけたのだった。自分で選んだのではなく、花屋さんに任せた花だ。それでKが喜んだという記憶はない。誤配されて、ひと騒動起こったことをあとで知らされた。誤配というよりは、住所がまちがっていただけだった。前の住まいが、近くだったことと、あとに入った人とは知人同士だったことで、無事手元には届いた。そのことで、下心を見透かされるような気分にもなったものだ。
  ぼくはKの母親を思い浮かべた。当時高校生になったばかりだったKも、うすうす勘づいていた。「一人前にやきもちを焼いて困るの」とこぼしたのを覚えている。すると、もう十年も前のことになるのだった。
 いったん疎遠になったあとに、 逢いたい気持ちが募っていた。はにかんだようなあの笑顔をもう一度見ればまた元気になれると思った。それはぼくの勝手な思いであって、当人には理不尽なことかも知れない、などと考える余裕はなかった。下心も、あとでそうと分かる程度の、いわば潜在意識だったのだ。そのとき逢えなかったばかりに、思いはいまに残っている。
 男が手をさしのべた。
「思い出しましたよ。あなただったんですね」
 男とともに淀んだ空気が漂って来た。重い空気を一息吸うと、どちらが夢の中の住人か分からなくなった。指先から力が抜けていった。Kの手が遠のいた。
「ここはどこなの?」
 男に娘が訊いている。白とピンクの小菊が、雑草の合間から頭を突き出していた。それ以外はモノクロームの世界。
 答えに迷った。真実を言えばKは花びらに化(な)って、飛び去っていくような気がする。
「非時の宿」
 それでもぼくは正直だった。
「あの人は、救われるべき人なの?」
 Kが男に畳みかけるように訊いている。空を漂うのは、ぼくの方である。(「夢の往還」其の四)


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