日  録 「空に翔る明るさ」   

2012年4月2日(月)

庭の梅もやっと花が開いた。桜と“同時満開”となって、すでに4月。
巨大地震への怖れ、消費税アップへの怒り、さらには原発への不信と世の中には不安の種がいっぱいあるが、2週間ほど前に植えたツタンカーメンの豆が土の中から芽を出していた。

「植物は裏切らないからな」これは恩師・ナベさんの言葉である。
「花や植木に手を染めたとき人は世の中と和解している」これは吉本隆明の言葉。
引用はともに不正確、また恣意的だが、いくつになってもどう生きるかが問われている。


2012年4月3日 (火)


リハビリのために病院へ行くと、若い女性の先生がボクの名前を呼んだ。新しく担当してくれることになっている先生の休日に誤って予約を入れていたというのだった。
「今日だけ私が担当します」

いまの状態を改めて説明するのは面倒ではあったが、膝を上下左右に動かしてくれるとその掌のあたたかさがいつもとちがうように感じられた。おまけに、(足を上げたときの)痛みについて、
「骨の問題ではないです。筋肉というのはいろいろな方向に作用しますので、予想外の動きに対して悲鳴をあげているのでしょう」
と断定し、自宅で簡単にできる筋力アップ法を教えてくれた。

それは、階段の最後の一段を使って、右足を動かさずに(軸にして)左足だけを下ろしたり上げたりするというものだった。
「朝晩各10回ずつ続けて下さい」
飲み薬の処方みたいだが、大きな痛みを伴わないからこれならば続けられそうである。

強風が吹き荒れ、雨も加わっての春の嵐であった。そんななかで3時半頃、いっとき陽光が射し、東の空に大きな虹ができた。10分くらい見え続けていただろうか。みごとな虹だっただけに、新たな天変地異の兆しでなければよいが、などと思ってしまうのは病理だろうか。


2012年4月5日(木)


午後かねての懸念が消え、陽気にも誘われ、いずれ花でも植えるつもりで庭の土を掘り起こした。さらに畑に下りて、青梗(チンゲン)菜と小松菜を片付けることになった。まだ食べられる若芽を掻いて両手いっぱいに収穫した。やはり惜しくて、咲いている花茎をたくさん切り取った。

かくて玄関から居間にかけて菜の花だらけになってしまった。大小の花瓶やガラス容器に活けも活けたり。数えてみると玄関に4個、居間に3個である。茎の数にして20本は下らないだろう。野っ原の菜の花畑には及ぶべくもないが、家の中を動けば眼の隅に飛び込んでくる黄色い、小さな花の群生は気分を明るくさせる。

若芽は茹でて食べた。ポキッと音立てて折れる若芽には、時分の勢いがあって最高に美味しい、とは誰かの言葉だったが、たしかにヤバい味がする。

そういえば、ついこの間まで庭にあった「かき菜」にも“はまって”毎日のように、もっぱら炒めて食べていた。食べる分だけポキッと掻くのであった。名前の由来もそこから来ているらしい。やはりアブラナ科である。

この「かき菜」ウィキペデイアには「伝統野菜」であると書かれていた。

伝統野菜とは大消費地向けにはコスト面から衰退した「在来品種」だが、近年、地域おこしの特産品、地産地消の商品として、脚光を浴びている、という。

その味は、万葉の昔から、日本人の舌になじみ、体をはぐくみ、心の奥底にまで浸透していったということなのだろうか。でなければ復活などしないわけで……。「かき菜」にはまった訳がわかった気がする。


2012年4月7日(土)

新聞を開けると、前衛生け花作家・中川幸夫氏死去の見出しが飛び込んできた。倉田良成さんの「群芳譜-中川幸夫氏に寄せる」(詩集『金の枝のあいだから』所収)にはこんな一節がある。

夕暮れどきにたましいはめざめる
みずからのするどさに
つめたく濡れふるえている刃の裸身のように
石をえぐる
それが花だ


送ることばとして、なんと素敵だろうか。(昨年7月の日録にも同じ箇所を引用していた。あとで気付いた)


2012年4月8日(日)

帰り道、カーラジオからホキ徳田の『TWILIGHT PIANO 〜北回帰線〜』 (インターFM)が流れていた。ゲストが「いま大学でヘンリー・ミラーについての講座を持っている作家の山川健一」というので音量を上げた。しばらく耳を澄ませていると、山川健一はこんな質問をした。

「○○○がレスビアンだったというのは、本当?」
○○○というのは、ヘンリー・ミラーとホキ徳田の友人でもある有名な人であるのだろうか。ボクは知らない名前だった。下らない質問をするものだと瞬時に思った。すると、

「それを私に聞くの? 知るわけないでしょ!」
これも即座にホキ徳田は答えた。彼女の態度は正しくてしかも小気味よかった。その話はそれっきりになった。

山川健一の“俗論”(「ヘンリー・ミラーもドストエフスキーもわれわれと同じ、恋に悩むような普通の人なんですよ」の類)を聞く気にはもうなれなかった。


2012年4月9日(月)

最高気温が20℃を超え、5月下旬並みの陽気だった、らしい。
というのは、日中冷房の利いた倉庫の中にいるからである。それでもこのことを見越して、朝龍眼の木を外に出しっ放しにして出てきた。あたたかさとともに元気な葉を早く出して欲しい、と願う。


2012年4月10日(火)

3時半に目が覚めてからしばらくは眠れたが、5時ちょっとすぎに再び目覚めた。もうそのまま眠ることはできなかった。かくして長い休日がはじまった。

病院でのリハビリを終えたあと、もろもろの所用を済ませて、すぐに最寄りのソフトバンクの店に駈け込んだ。先月の料金が普段の2倍になっていたのでここはサービス内容(料金プラン)を変えなければいけないと思った。
機種を変更した途端に「メールも電話もこなくなったよ」とこぼしていると「そんなものかも知れませんね、皮肉なことですが」と若い同僚が賛同してくれた、その携帯である。

原因はわかった。携帯で撮った写真を自宅のPCや配偶者に送っていたのだが、そのファイルサイズが前の機種の10倍以上もあるからだった。このことは一年前に配偶者の携帯で経験済みであった。あのときは3倍以上の請求額にびっくりして電話をかけると、担当者が「さかのぼって適用しますから、パケ放題に変更するといいですよ」と提言してくれたのである。

お店でははたしてパケ放題を勧められた。もったいないことをしましたね、とまで言われた。しかし、娘名義の携帯であるために委任状がいります、と用紙を3枚くれた。「10日締めですから、今日中に手続きすれば明日から適用されます」とも。

家に戻って娘の筆跡を真似て委任状を作ると自宅近くの別の店に入った。「委任状だけではダメなんです。名義人が同居している家族であることを証明するものがないとできません。規制が厳しくなったものですから」と若い男性店員に突き返されてしまった。

今日中に決着をつけたい一心で、そのまま4、5キロ先の市役所に行き、委任状の下の欄に小さな字で書かれていた「住民票記載事項証明書」を作ってもらった。こんな証明書ははじめてだった。先頃執務中に市長が亡くなったので、発行は「日高市長職務代理者/日高市副市長 ○○○」となっていた。それはともかく、さっきの店にとって返し、やっと料金プランを望む通りに変更できた。

このために費やしたコスト(労力)は大きかったが、いつもこういう羽目に陥るので、後悔よりも諦念が先立つ。

あたふたとした一日、そのどこかで買い求めた『新潮』も数ページしか読む時間がなかった。『シコふんじゃった』を小さな感動を覚えつつ観終わると夜の11時になっていた。だが、まだ眠くはならないのだった。


2012年4月12日(木)

『新潮』編集長の矢野優氏は5月号掲載の古井由吉氏の「窓の内」(連作の第1回目)について「言葉は老いるのか?」と反語的な問いを発している。そして「小誌誌面に古井氏が刻んだ言葉は生まれたばかりだ」と結んでいる。(メルマガ「『新潮』5月号」)

夢とうつつを往還し、生と死の皮膜を縫い、両者を架橋するように置かれる言葉は今回も胸を打った。PR誌『波』に連載されていた『聖』にいかれ、雑誌の到着を待ちかねていたのは30年以上前のことである。時は大きく過ぎたがその言葉は常に時代と拮抗していたように思う。つまり、いつも新鮮だったのである。

その古井由吉氏、ことし75歳。
同じ雑誌に軽妙酒脱な短編を発表している森内俊雄氏、36年生まれ、1つ年上の76歳。
長編『K』で亡妻を書ききった三木卓氏は35年生まれ、77歳。
もうひとり『群像』で連作小説を書き継いでいる黒井千次氏は32年生まれ、80歳。


いずれもかつて新作を待ちかねて親しく読んだ作家たちであり、いまなお「現在の言葉」と格闘している。ふと「昔の名前で出ています」という唄を思い浮かべて、嬉しくなる。


2012年4月14日(土)

10日に富良野の配偶者宛に出した手紙が4日目の昨日も届かなかった。よりによって中には銀行カードと多少の現金を忍び込ませていた。“紛失”となれば、痛い。カードを一時的に使えない状態にしておくことも必要かな、とまず銀行に電話をすると、すぐ止めることは可能だが、見つかったとき、あるいは見つからなくて再発行のとき、届け出の印鑑を持って窓口に来てもらわねばならない、という。これは面倒。印鑑などはどれかわからないし、なによりカードはこちらにはいない配偶者名義であるのだ。

次に郵便局に電話をした。通常ならば「翌々日」には届くはずだというので調べてもらうことにした。

「不着届けとして承りますが、結果が出るのに一週間かかります」などとお役所のような女性局員の返事である。“不着”などのことばは耳で聞くと随分と異和感があった。電話を切ったあとにこんな漢字だろうと思い至るのだった。現場もまだ官と民のはざまにいるのか、とつい余計なことを思った。

今朝になって郵便局から電話があった。形と中身を聞き忘れましたので、ということだった。白い封筒に、カードが入っている、と答えた。現金のことは怒られそうな気がしたから敢えて言わなかった。

「探しましたがこちらの局には残っていませんでした。富良野に今日の配達物の中にあるかどうかこれから聞いてみます」
会話中何度も、ご迷惑をかけてすみません、と男性局員は謝るのだった。

十数分後「富良野の局から連絡があって、今日の配達物の中にあるそうです!」そしてまた、「ご迷惑をおかけしました。申し訳ありません」と頭を下げる。
「こちらこそ、ありがとうございます。助かりました」と答えた。
一応朗報である。

なぜ5日もかかったのか知りたいのは山々だったが聞かなかった。
それよりもこの日録で「消えた郵便物」をモノするつもりでいたのに当てが外れた。


2012年4月17日(火)

午後になっていっとき、雷の音が遠くに聞こえた。夕方には南の空に厚い黒雲が立ちこめている。すわ、夕立、と思わせる風景に奮い立った。魚が食べたいと思いその空の下をスーパーに走った。近所の友人のブログに触発されたのである。彼は鯖について語っている。こちらは無難に塩鮭を買ってきた。

リハビリ通院もあと2回ほどで終わることになっているが、今日手渡された「治療計画書」には目標として「走れるようになりたい」と書かれていた。これはボク自身がいつか訴えたことばである。それがそのまま印字されていた。

新しく担当になった若い理学療法士は自宅でできる筋力アップの方法について理詰めで教えてくれた。一週間前の通院のときにも教えてもらったのだったが、毎日数回やるようにと言われながらこの一週間一回もやらない日が多かった。

その方法は「一段足踏み」である。怪我をした右足を踏み台に乗せたまま、左足を上げたり下ろしたりする。左足をゆっくり下ろすときに右膝にかかる負荷こそ、走るときに必要不可欠の力である、ということを骨と腱と筋肉の動きとともに説明してくれる。おおいに納得できた。

階段を使う手もあったが、一段の高さ20センチはやや高すぎるし、そこは暗くて、さびしい場所である。できれば居間でテレビを観ながらやりたい。そこで踏み台として恰好のモノとしてまず目に付いたのが広辞苑である。

いや、待てよ。あまり使わなくなったとはいえ、広辞苑を足蹴にできるのか。新聞を踏んだたけで父から怒鳴られて育った自分が、身体の再生のためとはいえ“ことばの海”を踏みつけていい訳がない。

そんな自問自答を繰り返した末に、座布団を3枚重ねて踏み台を作った。ふわふわとした感覚はやや頼りないものの、居間での”ながら訓練”は快適である。課題は毎日続けることであるのだが。

《私はたくさんの情報が身体を流れていく感覚が好きだ。それらは私に何の影響も与えずに透過していくけれど、確実に私をよごしてくれる。毎日のニュースは、その日浴びなければいけない外での喧噪に耐えるための、免疫をつけてくれる。》

これは綿矢りさ「ひらいて」(『新潮』5月号)の一節。高校3年生の主人公の独白として置かれている。ことばも感覚も、なるほど若い力を秘めている。240枚の小説、まだ読み終えてはいないが、侮りがたい活力と言うべきか。なぜともなく広辞苑を踏みつけなくてよかった、と思った。


2012年4月19日(木)

庭の草の伸び方が著しい。午後も遅くなってから、せめて通路だけでも片付けておこうと思った。

若々しいみどり色でまだ雑草とも呼べない草を長柄の鍬でこそぐように土から切り離し、手でもぎ取りながら、せっかくだからと欲が出た。芽が出てから日毎に大きくなっていくツタンカーメンの豆の横を耕してささやかな花壇を作ったのである。

あちこちに散らばって咲いているチューリップを3茎、球根から芽を出したばかりの百合、それと庭の真ん中にぽつんとひとりぼっちだったイチゴの苗をそこに移植した。

また、花の種を2種類蒔いた。袋の写真は目に焼き付けたが名前は敢えて記憶に留めなかった。咲いてからのお楽しみということにした。にわか花壇にはその方が似合っている。
1時間の作業を終えると、いまにもひと雨きそうな雲行きとなっていた。それでも、念にために如雨露いっぱい分の水を遣った。

夜、もやしを入りの味噌汁を作った。これも思いつきだった。自分で作るようになったこの一年ずっと、学生寮で出てきた味噌汁にはきまってもやしが入っていたことを思い出していた。いつも冷えきっていた。そんな記憶にもあと押しされたのかも知れない。
ところでこれが、いままで自分が作った味噌汁の中でもっとも美味かった。驚いた。


2012年4月20日(金)

仕事帰りに入院中の兄を見舞ったあと、道ひとつ隔てた「滝の城跡」に足を向けた。起伏のある小山のいただきに本丸を構え、堀に向けて滝が流れこむ、そんな城であったらしい。500年あまり前のいっとき確かに存在し、これほどの時が経てば、光芒のごとく消えてしまったとしか言いようがない。いま本丸跡には城山神社が建っている。

お詣りを済ませたあと、まだほんのりと明るさが残るなか、誰もいない境内を歩き回った。南の方向に眺望が開け、柳瀬川を挟んで、はるか向こうに橙色の灯りがきらめいていた。小山と思ったが意外と高いのかも知れない。


2012年4月23日(月)

今日、明日と、思いがけず連休となった。仕事に出かけるつもりでふと明日の段取りをしている自分に苦笑する。習慣とはおそろしいものである。

雨の昼さ中、本を片手に何度か眠り込んでしまった。となりに坐り込んでいるのはわが母だった。ちゃんとした会話も交わしていた。
「みんないなくなったね。どこへ行ったのだろうかね」
「そういうおふくろも、実は死んでるんだよ」
背中をさすると温もりが感じられた。

また、
JRの駅に行きたいのに、私鉄のホームから出ることができない。前を走っていたMの姿はすでに見えなくなっている。うまく目的地に辿り着けただろうか。右往左往したあげく駅員に訊くと線路を横切る幅50センチほどの板敷きの通路を指差して「いまなら大丈夫だ、ここを渡れ」と言う。あっけにとられて、向こう側のホームにむかった。

古びたビルの前で再びMと出会う。このMは、かつて同じ職場にいたずっと若い女性である。Mは当時のまま登場する。そのときボクは30代の前半だったが、夢のなかでは十分に歳を重ね、現在の姿である。

この不公平はなんだろう。と思う間に、MはいつしかMではなくなった。学生の頃の友人・Kにすり代わっている。
ビルの一室をボクのために“また貸し”してくれている、という設定である。こんなことも、アクチュアリティがあるから妙であった。これぞ夢のリアリズムであるのか。


2012年4月24日(火)

牛乳とパンを買うために2キロほど先のスーパーへ自転車で向かった。
車では滅多に通ることのない道を、大がかりな畑を縫って進むと「○○農園」と看板を掲げた建物が次から次へと現れる。小さな工場も点在している。ひとつひとつ会社名を確かめながら行くが、何を作っているのか見当もつかない。

その点畑はわかりやすい。耕されてビニールカバーが施された長い畝の列には、これから夏野菜が植えられていくのだろう。ハウスの中では促成トマトが青い実をつけている。放っておかれたアブラナ科野菜の花が咲き乱れている。その差し込むような甘辛い匂いにむせていると、収穫した野菜を高く掲げて建物の中に消えていく若者とすれちがった。初夏の陽射しが降り注ぐ午後のいっとき、なつかしい光景であった。

6時前後に激しい雨が降り出した。雷の音も遠く聞こえた。ほんのいっときで熄んでしまったのは残念だった。


2012年4月26日(木)

リハビリのための通院は今日が最後となった。
最後の3回を担当してくれた若き理学療法士は「走れるようになりたい」というボクの願いを真摯に受け留めてくれたようだった。

走るとき筋肉、靱帯、骨がどのように動き、どういうストレス(=緊張)に見舞われるか。瞬間瞬間の着地によって、一本の足、とりわけ屈曲する膝が受けるのは相当な力である。それゆえに、自宅では筋肉トレーニングを怠ってはいけないと諭すのであった。

「走れるようになるのは、夢のまた夢のような気がしてきましたよ」
「いったんおとろえた筋肉は元に戻すのに時間がかかります。普段でも速歩(はやあし)を心がけて下さい。きっと走れるようになりますよ」

いま記憶で再現しているが、治療中にはメモをとっておきたいと思ったものだった。メモをとらなかった代わりに、家に戻ると二階から『運動生理学』(オストランドほか著)という部厚い翻訳書を持ち出してきて、関係のある記述がないかどうか調べてみた。専門的にすぎてとても歯の立つ書物ではないが、第[章「骨格系」の「関節」の項にはこんな風に書かれている。

《骨が靱帯と筋だけで結合されている滑膜関節では、関節がどんな位置にあっても関節面は並列している。関節面の並列保持は、大気圧と粘着性で助けられるが、もっと重要なのは筋の作用である。関節に作用する種々の筋群間の緊張が釣り合っていれば関節面は常に並列に保たれる。したがって、関節の安定はそれに作用する筋緊張によるのである。
(中略)
たとえば、ある筋や筋群が収縮して関節が曲がると、関節包の伸展した部分で張力が増す。すると、この部分から出る神経は拮抗筋を収縮させるように働く。このことは、靱帯が過度に伸展したり裂けたりするのを防ぐのに役立つわけである。》

深い理解には届かないが、関節ひとつにしてなかなか“精巧な生理”ということはわかった。
また膝に残る痛みについて「深刻なものではありませんよ。筋力がつけばなくなりますよ」という診断と関係があるのかも知れないと思った。(直感に過ぎないが)

ついでに索引で「走行」の項を探し出して頁を開いてみた。記述は、走るときのエネルギー消費や酸素摂取量についての説明から、中・長距離競技でよい成績を修めるためには、という風に発展していく。これは残念ながら、腑の底に届かなかった。


2012年4月28日(土)

高橋英夫『西行』(岩波新書、1993年刊)は「出家を思い立った頃の心懐」として『山家集』から次の一首をあげている。

そらになる心は春のかすみにて
世にあらじとも思い立つかな


すぐに続けて「こころそらになる」というのは、心が身体から遊離して空に上っていってしまったことをいう表現、その奥には「別の空間=仏道の世界」へと上昇する意味があるのではないか、と書いている。

さらに、世にあらじ(遁世)は「空に翔(かけ)る明るさだ」ともいうので、少し感応してしまった。「夢のまた夢」が多いのが人生というものかも知れないが、それにしてもわれの場合「多すぎるなぁ」と嘆じてしまう。

しかし 一方で、「夢は明るさに通底している」と思う。牽強付会にすぎるだろうか。


2012年4月30日(月)

ついこの前までベッドの中では電気あんかにしがみついていたのに、いまや連続の夏日で夜は毛布一枚で足りる。季節はめぐっているとはいえあまりの急転ぶりにどぎまぎする。4月も終わった。


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