日  録 カレンダーを捲るとき   

2012年6月2日(土)

5時過ぎに起床。まず畑に出て、ズッキーニの雄花が開いていたので雌花に花粉を付けた。そうすると数日でズッキーニは大きくなるのだ。人工受粉をしなかった実はやがてへたれてしまう。

ついで庭を見回った。一昨日草むしりをしたものの依然茫々としている。というか、草たちは日々成長していく。人の手、ましてやボクの手など追いつけるはずはない。そんな中でたくさんの莢を付けてきたツタンカーメンの豆畑は見飽きるということがない。

莢の色は濃い紫。これは朝の空気の中で異彩を放つ。種を郵送してくれた友人の昨日のメールにはたまに緑の莢が混じることがある、と書かれていた。「先祖返りだろう」との感想が添えられていた。鈴生りの莢をすべて調べてみたがこの畑には緑のものはなかった。

龍眼の芽生えを見るのも大きな楽しみである。小さいながら、葉らしく、枝らしくなってきた。豆に比べれば成長は遅々としている。それだけに途中で力尽きて萎れてしまわないように、ただ祈るように見守る。

花瓶に活けるための小さな花をふた茎摘んで家に入り、一階のすべての窓を開け放った。風ひとつない快晴、6時前には20度くらいにまで上った太陽がPCモニター越しに射し込んできた。さしずめ私的サマータイムの初日、といったところである。

[追記]
ミッドナイト・プレスからウェブマガジン『midnight press WEB』(隔月刊、pdfファイル)が創刊された。季刊『詩の雑誌 midnight press』が31号で休刊になってから6年、待望の復刊である。 編集長の中村剛彦氏は「それでもなお詩を見出さんとすることの喜び」と書き、発行人の岡田幸文さんは「凝縮の精神が生む一篇の詩が立つ場所に改めて立ち返りたい」と記している。詩とはつまり“いまの時代のことば”であるのだろう。6月早々の“大事件”である。

そのWEB版のアンケート「好きなことばは?」に『蝟集と反芻』と回答した。人生的な、あるいは哲学的な意味は、ひとつもない。字面や元々の意味がずっと好きだったというにすぎない。強いて言えば、これからじっくりその意味するところに、できるものならば深く入っていきたいと思っている。


2012年6月3日(日)

夜、なにやら騒々しいので窓を開けて外をみると激しい雨が降っていた。
そのまま開けっぱなしにして、雨音を聞いて過ごした。すると、この音は、ボクにとっての音楽のように思えてきた。

FMラジオを聞いていても、おしゃべりが煩わしくてつい切ってしまうことが多くなった。向かっ腹が立つことさえある。ますます偏屈になってきたのか、自然の音に楽しみを見出すのである。


2012年6月4日(月)

なにげなしに河林満の名前を検索エンジンにかけると2008年2月に57歳で急逝していることがわかった。

この『渇水』の作者はときおりなつかしさとともに思い出される。今回もそうだった。文芸誌に作品を発表しているのを知れば読んでみたいと思うのだった。『季刊文科』で目にしたのはついこの前のような気がするが、それはもう4年以上も前のことだったのか、と不明を恥じた。

一緒に酒を飲んだのはたった一回切りだったが、たくさんの軍歌を知っていて驚いた。夜明けの酒場で、次から次へと、朗々とみごとに歌い継いでいった。また逢ってみたい人だった。遅ればせながら冥福を祈るのみである。


スーパーに立ち寄ったついでに「VHSテープ」が売っているかどうか家電コーナーを覗いて見た。そこにはDVDやブルーレイしかおいていなかった。デジタルテレビに大容量の録画用ハードディスクが内蔵されている時代だから、当然なのかも知れない。こちらは4年なんてものでなくもっともっと短い周期で変わっていく。アナログ人間にはなかなか厄介である。

というのは、予約録画がうまくいかないので配偶者から頼まれて(5月31日の項)から5日目となる今日、ついにカスタマーセンターに電話したのである。

そこで飛び出してきたのは「Irシステムとその端子」。アナログをデジタルに変換するために必要なシステムであるという。
「長さ5センチ、厚さ5ミリくらいの長方形の箱形で片側が半球の突起になっている端子、どこかにありませんか?」
と言うからほこりだらけのビデオ台に手を入れてまさぐると裏側から長いコードにつながった端子が出てきた。

「突起部分をビデオ機器のリモコンの信号を受ける場所にかざしてください。そこから信号が行ってもう一つのデジタル受信機と録画機器が連動するのです。その端子は機器が反応するところに突起を向けてテープで貼り付けておいて下さい」

言われた通りに試してみると、本体受信機と連動してビデオレコーダーが動き始めた。訳がわからないながらも、少し感動した。

ところが、試しに録画した部分を再生してみたところ映っていないのである。他の番組で2回ほど試したがやはり映らない。そこでもう一度電話をした。

担当者(さっきとは別人のようだったが、今度も女性である)は「録画機器のモードを“L-1”にしてください。そうしないと予約連動録画はできません。説明が至らずにすみませんでした」と言う。

やっと予約録画ができた。ホッとすると同時にやはり厄介なものだと思った。

「Irシステム(ウィキペディアによると、赤外線を利用してテレビが録画機器を制御するための送信機、又はそのシステム。 Irシステムの"Ir"とは、赤外線を意味する英語「Infrared」の略語)」はなんとなくわかったが、「L-1」については依然わからない。見当もつかない。他に「F-1」というモードもあったが、もうわからなくてもいい、という気分である。こういう作業は心底疲れるようになった。嗚呼!


2012年6月5日(火)

つかみ取ったと思ったもののすぐにポロリと物を落としてしまう、そんな経験を何度もする。手の指、その神経が弛緩している。つかんだというのは錯覚だったのだろうか。

このところ連日「アリとの闘い」を続けている。 去年は主に居間だったが、今年は台所に行列をつくって現れる。小さなアリも必死である。それを掃除機で吸い取る。場所が場所だけについ真剣になる。しばらくするとまたやってくる。どれだけの数のアリが隠れているのか、想像できない。

そこで、囮として、広口のガラス瓶に砂糖とみりんを入れて流し台の端に置いた。たちまちアリがやって来た。瓶のまわりをぐるぐる巡り、なん匹かは瓶の中に入り込んでいく。全部が中に吸い込まれていって二度と出られない仕掛けであればいいのだが、これはそうではない。ただ、いまふたをすれば中に入っているアリたちはもう出られない。相当のSだなぁ、と思いつつふたを閉めた。

何時間かあとに今度は食器棚の上段付近に行列を発見した。手前の食器を取り除けて出所を探ってみるとかなり古そうなはちみつの瓶に行き着いた。ふたの隙間から中にまで侵入している。さすがにぎょっとして、瓶ごとビニール袋に入れて外に持ち出した。これはさっきの囮に対する復讐であるのか。

ティッシュを手にアリを摘んでひねり潰すこともあるこの手、わずか2ミリの生き物に対して大げさに過ぎる。さらに遡って、その手の指にも呪いが掛けられたのかと思ってしまう。


2012年6月7日(木)

ツタンカーメンの豆をひとつ、試みに採ってみた。下の方の、大きく膨らんだ莢である。ふたつに割いてみると両側に5ミリほどの実が交互に3つずつついていた。うすい黄緑色で、普通のさやエンドウの実と変わらない。

いまや鈴生りの莢であるからこれからはいつ収穫するかに悩むところである。ネットで調べてみると莢が緑色に変わってきた頃が採りどき、と書いてあった。また変わるのか、とびっくりした。

収穫のあかつきには「豆ご飯」に挑戦してみるつもりである。炊いてから10時間ほどすると赤飯に豹変するというから、本当? と疑う気持ちもある。が、是非この手、この目で確かめてみたい。

最近「ツタンカーメンの呪いはウソっぽい」という新聞記事を読んだが、その名を冠した(王墓発掘時に見つかった種、というのは本当らしいが)この豆は、赤紫と白とピンクのまざった綺麗で高貴な花からはじまって、濃い紫の莢、緑の実と「色変化」がめまぐるしい。さらに赤飯の赤となれば、もうそれだけで普通人間のボクなどは幻惑されてしまうのである。


2012年6月8日(金)

森永乳業の「まきばの空」自主回収のニュースをネットで読んで、そう言えば昨日買った牛乳はそれだったと思い出した。

改めて新聞を見ると「お詫びとお知らせ」の広告が出ていた。それによると「製造設備の不具合により賞味期限内に風味劣化が生じる可能性がある」ということらしい。詳しく読んでいくと、冷蔵庫に入っている飲みかけの牛乳は「対象商品の賞味期限」は該当するが「製造所固有記号」はちがっていた。つまり「回収対象外」であった。

小さな胸騒ぎは空振りに終わった。

思えば骨折してから毎日のように牛乳を飲む習慣ができたのである。おふくろはその昔毎朝配達される牛乳(ガラス瓶だった)を楽しみにしていた。ごくごくと一気に飲む場面が記憶の一隅に点滅するようにもなった。

おふくろは毎朝の牛乳によって、身体に力と安心をつけ、仕事に向かっていたにちがいない。それに較べればボクの動機は骨作りであるのだから、きわめて即物的、言い換えれば“不純”である。ともあれ、コップ一杯を飲み干して出かけた。


2012年6月9日(土)

朝電話で再配達を依頼しておいたので、予定通り夜8時過ぎにクロネコヤマトがやってきた。印鑑を持って玄関を開けるとドライバーが手ぶらで直立している。“荷物の身の上”に何かあったかと咄嗟に思った。
ドライバーは次のように説明した。

「朝荷物を選り分けるときに誤って、東松山に送ってしまいました。今夜東松山で行き先別に仕分けて、明日早朝に、私の所属する日高のセンターに戻ってきます。これから東松山に行って取ってくることもできますが、それでは配達は11時頃になってしまうのです」

配送センターの東松山からやってきた荷物を、電話で再配達を頼んだ直後に、集配物とあやまって東松山に送ったということらしいとわかるのにしばらくかかった。それほど、ややこしくて、こっけいなミスである。

「こっちは夜の何時になってもいっこうにかまいません」と言ってみたが、ドライバーにその意思はないようだった。それを]無理に要求するのも酷な気がしたが、「じゃ、どうなるの?」と詰問してみた。

「明日朝、早出をして荷物を探し出し、責任を持ってお届けします。すいませんでした」と深々と頭を下げた。

荷物の中身はパンである。ひとり暮らしを案じて、義妹が友人のパン屋さんに頼んで定期的に送ってくれるのである。明日は発送(製造)4日目。昨日の牛乳に続いて、賞味期限が関わってくる。

ささいな胸騒ぎが続いたことになる。いやぁ、まったく小さいことだが。


2012年6月11日(月)

朝、小雨降るなかをズッキーニやスイカの受粉をしていると、となりの畝にキュウリが2本土に触れんばかりにぶら下がっているのを発見した。身体はまだ小さいのにもう作物として通用するまでに成長している。採って冷蔵庫に仕舞っておいた。

夜、餃子など焼いて遅い夕食も半ばまで済ませた頃に、キュウリのことを思い出した。

その少し前には配偶者から電話があり、あうでもない、こうでもない、と長い間やり合った。いまさらながら、という思いはこちらには強くあるが向こうにはいまだからこそ言っておきたいことなのだろう。それはわかるが、面倒くさくなって途中で切ってしまった。3日後に帰ってくるのだからそのときに修復すればいい、とも思った。空腹は短気を誘う。

食べるのを中断、表面に棘のない新種らしいキュウリを薄く輪切りにして皿に盛った。塩をふりかけてむしゃぶりついた。涼やかな香りが立ち、舌にするりとなじんでいく。初物の味は格別であった。また明日が楽しみになった。


2012年6月12日(火)

雨が降る前に、と畑に下りて草むしり、肥料撒きのあと、ジャガイモの試し掘りをした。北あかりらしい品種をひと茎掘ってみたところ中くらいの大きさのイモが7つばかり収穫できた。

これを本来の意味での「新ジャガ」と呼ぶ、とTさんに教えられた。葉がまだ緑々しているときに掘り出したものと、葉が枯れてから収穫したものとを区別する言い方だというのである。

「新米」というときはその年の穫れたての米という意味であるが、「新ジャガ」はちがうのである。ボクははじめて知った。世の中の人たちも誤って理解しているにちがいない。

そんな中でネットにこんな記述を見つけた。

《通常の収穫期より早く収穫したもののこと。若くて水分を豊富に含んでいますので、皮がとても柔らかく、手で剥けるものもあります。独特のみずみずしさがあり、サクサクとしているのが特徴です。》

夜炒めて何個かを食べてみたが、その通りであった。誰かとこの感動を共有したくなっていたが、ちょうど新聞の集金の人が来たので、ふだん留守がちで迷惑をかけているから、と3個ばかり差し出した。

「これ、ヤバイですよ」と言うと、八重歯を見せて喜んでくれた。

その1時間ほどあと、雨の中を傘も差さずに新聞店の人がやって来て朝日の夕刊をおいていった。 間違って東京新聞の夕刊が入っていたことを集金の人に話したからだった。再配達を頼まなかった(ましてや強要などしなかった)が、結果として読みたい記事がいくつかあったので助かった。

さらに2時間後、思い立って新ジャガを蒸かした。肌寒いくらいの夜に、ほかほか、ほくほくのイモは最高の贅沢であった。


2012年6月17日(日)

14日夜に帰って来た配偶者はけさ再び富良野に戻った。昭和の時代の修学旅行並みだ、というのはあと知恵みたいな「感想」である。

3泊4日の滞在、時間にして正味72時間、つまり3日間分であるが、中身はなかなか濃くて、ハードであった。無事着いたというメールについ「お疲れさま」と書き添えて返信した。3日間分が2倍にも3倍にも相当したにちがいない。

土産を渡しそびれたと言っていたのを思い出したので夕方、ご近所2軒を訪ねた。そのうちのひとりから「2泊3日だったと聞きましたが」と言われた。敢えて訂正しなかった。

これは、長かったのか、短いのか、どっちだろう、と考え込んでしまった。修学旅行ならば「長いようで短い、短いようで長い」と言えば済むが、家族の事情はそういうわけにいかない。ここは「私小説」を生きているような気がしてくるところであり、言葉にしてみたい誘惑を覚える。

そしてこのことは 「108年目の文芸誌の賭け」と編集長自らが公言する、650枚一挙掲載作「火山のふもとで」(新潮7月号、松家仁之)を読みはじめたことと無関係ではないと思う。この小説の「設計事務所の群像劇」と、われのみの「変哲のない日常」それぞれから発せられる言葉にいま脳みそがチャンプルーされているからである。

人の心の奥底に響く小説の立ち位置がいかにきびしいものかを「火山のふもとで」は教えてくれるが、どちらに与するかと言えば、いまのところは後者である。


2012年6月19日(火)

朝から部屋の中は蒸した。清見オレンジの幼木のまわりに草がはびこっていたので庭に出て長柄の鍬で草切りをはじめた。

さらに、葉が枯れ始めたツタンカーメンの豆を撤去した。植えてから3ヵ月あまり、一つ一つ莢を割って取り出した青い豆粒は450ミリリットルの瓶いっぱいに詰まった。収穫としてはかなりの量であるにちがいない。

いよいよ豆ご飯だなどと考えながら3つの方位にある4か所の窓を開け放つと涼しい風が部屋の中に入ってきた。北上を続ける台風4号が通過する14時間ほど前のことである。

我(俄?)流豆ご飯は午後4時に炊きあがった。早速食べてみると、グリーンピースご飯とまったく同じ味であった。風雨が激しくなってきた夜中に釜の中をのぞくとすっかり赤く「窯変」していた。もう一度朝食べることにして、ふたをした。それにしてもなぜ赤くなるのだろうか。科学(化学)的な理由はあるはずだった。 知りたいものだ。


2012年6月21日(木)

朝ディーラーに車を預け、代車を借りて帰宅した。それから夕方取りに出かけるまで一歩も外に出なかった。

走行距離が12万キロを超えた車はちょうど10日前から、バッテリーのカタチをした赤い警告灯が点くようになった。エンジンを掛けてから4、5キロ走るとランプは消えるが、10時間近く経って再びエンジンを掛けるとまた点灯する。悪い想像ばかりがはたらいて、赤いランプが消えるまでは気が気でない。

はじめて点灯した日にディーラーの元に駆け込んで検査を受けたところ、バッテリーは良好、充電も正常という回答を得ていたが、それから毎日、点いては消え、消えては点くを繰り返してきた。

「1日預かって、原因を調べてみましょう」と営業のMさんが予約をしてくれたのが今日であった。ダイナモ(オルタネータ)と呼ばれている充電装置の不具合ではないかという大方の予想だったが、コンピュータの誤作動も否定しきれないと言われてもいた。それであればどんなに嬉しいか、と思いながらディーラーへと急いだ。

しかし診断結果は「警告灯が点いているときは充電をしていない。オルタネータを交換する必要あり」となった。

「この状態でいつまで持つか、何とも言えません。明日動かなくなるか、一ヵ月大丈夫か、両方ともあり得ますので」などとマネージャー氏はおどかすのであった。

誤作動かも知れないと思うから、走行中に赤いランプが消えると思わずヤッターと叫ぶようになっていたが、もうそんな能天気なことを言ってられなくなった。交換できるまでは、乗りこなさなければならないのに。嗚呼。今日は昼の長さがもっとも長い夏至の日である。


2012年6月23日(土)

今日も赤いランプはエンジン始動時から点いて、10キロばかり走ったところで、やっと消えた。昨日もそれくらいだったので、明らかに消えるまでの距離が長くなっている。

勤め先の駐車場に着いてから、少し時間があったのでボンネットを開けて、在り処を教えてもらったばかりのオルタネータなるものを眺めた。それで何かがわかるわけではないし、どうこうできるわけでもない。

「とりあえず片道が無事終わったなぁ」と語りかけるだけである。
それなのにボンネットを開けるなどは悪いクセだった。一歩まちがえば“知ったかぶり”と揶揄されるところであるだろうが、そうせざるを得ないところに、病の根源がある。

実は書き留めておきたかったのは、そのあとのことである。左手が残っていることに気付かず自らの右手でドアを動かした。すると左手中指が挟まってしまったのである。ゆっくり閉めたつもりだが、てこの原理で指先の骨にはけっこうの衝撃が走った。想像は悪い方向にはたらいた。まさか、骨折!

近くの水道栓へと走り、とにかく冷やし続けた。冷やしたあとは、揉んで、さすって、回して、と考えられるかぎりの“初動治療”を行った。車ばかりか、この身体までも、そんな思いに駆られたからである。

幸い、内と外にかすり傷程度の痕が残っただけで済んだが、そのあとも1、2回小さな過ちにヒヤリとした。それが何だったかもう思い出せないくらいだから、たいしたことではなかったのだろう。臆病な一日になってしまった。


2012年6月26日(火)

プロ野球中継をラジオに切り替えようと思い、テレビを消さないでラジオをつけると、コンマ何秒かのずれがあることに気付いた。映像の方が遅いのである。

ボールがバッターの元に届く前に、ラジオのアナウンサーがストライクかボールか、空振りか、打ったときは、ファールかそうでないかを言うのである。

コンマ何秒かおくれて映像を追いかけるというこの感覚は、はじめ新鮮に感じられた。消音にしてしばらくの間画面に見入っていた。大げさな言い方をすれば、ラジオの声によって、目の前(映像の中)の“未来”がわかるのである。

やがて妙な心地が兆してきた。ラジオの声が耳に届くと、テレビは厳密な意味でライブではなくなるから、スリルというかドラマ性がなくなるのである。面白がる気持ちが失せてきた。

これが逆だったらどうだろうか、と考えた。すなわち先に届いた“現実”を“声”が解説してくれる。すんなり現実を受け入れることができても、これはこれで凡庸に過ぎるだろう。

(ところで、こんな現象になるのは、アナログ受像器をケーブルテレビによって「デジ変換」して見ているせいだろうか。それともどこでもそうなのか? ちなみに、テレビはBS朝日、ラジオはTBSだった。)


2012年6月27日(水)

兄は特に許されて病室で携帯電話を使うことができる。喉から呼吸管を入れているので話すことはまだできないが、それで孫たちの声を聞くのを楽しみにしている。その電話が通じなくなったので見に行ってくれないかと前夜、甥に頼まれていた。

病室に着くと早速電話機を調べてみたが、電源は入っているし、充電もなされている。なぜコールしなかったのか不思議だった。

こちらから自宅に掛けて兄に渡すと、孫たちが電話口に出てきたようだった。手で電話機をこつこつと叩いて合図を返しながら、三人の孫たちの声を聞いていた。

あと一ヵ月くらいで自宅療養に切り替えられそうだと同じ電話で甥は言っていた。長きに及んでいる入院生活だけにその日が待ち遠しいのは何よりも本人だろう。身体に元気が戻ってきてベッド上の退屈を持てあましているようでもあったから。

病院を出たその足で体調を崩してからもう4ヵ月近く仕事を休んでいる同僚の部屋に立ち寄った。数時間前に「仕事帰りにでも立ち寄って欲しい」という電話が入っていたからである。

ボクなどはたいして役に立たないことを実感するのだった。だが、ともに希望はあった。


2012年6月30日(土)

家の中にかかっているカレンダーはあわせて5枚。年末にいろんな所からもらったモノである。スポンサーは「東京プロパンガス」「日高ガス」「ASA日高」それと「明治安田生命」「同・卓上版」である。

これが多いのか少ないのかはわからないが、ベッドの足元の鴨居あたりに掛けた6枚目のカレンダーは1ヵ月くらいで取り外した。同じ部屋に二つはさすがに要らなかった。

古い頁を破り捨てて新しい頁を開くのはこのところボクの役目である。新しい月になった朝に“捲る”ときもあれば、前の晩日付けが変わるか変わらないかのときに“破る”こともある。後者の場合は、せっかちな自分に少々呆れてしまう。

ともあれ今日で一年の半分が終わる。5枚のうちの2枚にはいくつかのメモ書きがされている。書き留めておかないと忘れてしまうのではないかという恐怖心から、何でもないことも、書くクセができた。この月もそんなメモ群とともに終わる。捲るのは明日の朝にしよう。


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