日  録 弁明か、修辞か
  

2013年10月1日(火)

K病院へ。最初の診察から約40日経った。その間、栄養指導、減塩食事の実践を経て、ついに診断が下った。血圧手帳に記録しておいた数値を見ながら医師は「低いときもありますが、概して高値推移ですね。明日からお薬飲みましょうか」と言った。全国3000万人と言われる高血圧患者の仲間入りである。

「このところ頭が痛くなることが多いのですが関係ありますか。」

「そのときは血圧高そうですか。」

「高いときも、そうでないときもあるように思います。」

もう一度手帳に目を落として医師は、

「もっと数値が高いときには脳を刺激しますので関係ありですが、これでは何とも言えません。薬の効き具合をしばらくみてみましょう。手帳にも記録していって下さいね」

1件用事を済ませてから病院近くの調剤薬局へ。受付で処方箋を渡して待合室の方を振り向くとたくさんの人と一度に目が合ってびっくりした。入るとき、こんなにいるとは気付かなかったのである。よく見れば病院で見かけた顔ばかり。概してぼくよりも年長者である。

ここでも何十分か待ってやっと手にした35日分の薬。その名前は、ブロプレス錠4、であった。明日の朝が待ち遠しい ?!


2013年10月4日(金)

お風呂につかりながら何日か前ラジオでピーター・バラカンが言っていたことばを思い出した。「何ヵ月もシャワーで済ませていたのですがゆうべは久しぶりに風呂に入りました」そのとき、あぁ、同じだ、と共感を覚えた。

この三ヵ月くらいは帰宅するとすぐにシャワーを浴びた。とにかく汗を流してさっぱりしたい、そのために風呂を沸かす時間も待てないという心理がはたらいた。大げさに言えば、生きていくのにせっかちだった。

久々の湯槽のなかで伸びをすると隅々にまで温気が沁みた。10月に入って早何日かが過ぎ、急に気温も下がり、肌寒いくらいである。ことしもあと三ヵ月を切った、などと考えると、年末に向けての気ぜわしさを思って億劫になる。暦の迷宮に入ったような気がするのは毎年の感慨だが、湯のなかではいっときとはいえそれが温気とともに消える。

ピーターさんはあのとき、こんな感想を付け加えていた。「のんびりとして、リフレッシュできましたね。よかった」こういう素直な心持ちが必要なんだなぁ、と今夜改めて実感した。


2013年10月6日(日)

4年来となる栄養補助食品(スジャータの「アホエン」)3錠にもうひとつ高血圧の薬1錠が加わって、きょうは5日目である。一日一回朝食後に服用している。

毎日2回血圧を計測しているかぎり「効いてきた」という感じはしない。相変わらず高値推移が続いている。元々自覚症状があったわけではないが、もしはやくも「効いてきた」とするならばそれだけ副作用も強いということだろうと思った。薬局でくれた注意書きには「めまい、ふらつき、たちくらみ……ほてり、せき、眠気」と書いてある。幸いそのいずれもないようだ。

一方効能は「血管を収縮させて血圧を上げる物質(オンジオテンシン)の働きを抑える」とある。たった4r、でこれだけの仕事をさせようというのである。たいしたものでもあるが、怖いことでもある。


2013年10月8日(火)

今日は24節気のひとつ寒露だという。ウィキペディアには、

露が冷気によって凍りそうになるころ。雁などの冬鳥が渡ってきて、菊が咲き始め、蟋蟀(こおろぎ)などが鳴き止むころ。『暦便覧』では、「陰寒の気に合つて露結び凝らんとすれば也」と説明している。

とある。ところが、台風の影響もあるのか今日もまた30℃前後の蒸し暑い日だった。22日の霜降(そうこう)までの期間としての意味もあるというが、深まる秋、の気分にはほど遠い。

同じ発音の甘露には『広辞苑』によると、

(1)中国古来の伝説で、王者が仁政を行えば、天がその祥瑞(しょうずい)として降らすという甘味の液。平治物語「竜神も感応を垂れ、―の雨を降らす」

(2)〔仏〕(梵語 amrta アムリタ)神々の飲料で、不死の霊薬とされる。三教指帰「金閣・銀閣倏忽として翔り聚まつて、授くるに―を以てす」

(7)夏、カエデ・エノキ・カシなどの樹葉から甘味のある液汁が垂れて樹下を潤すもの。アブラムシが植物内の養分を吸収して排泄する、ブドウ糖に富む汁。

などの意味があるという。吉本ばななの初期の小説に『アムリタ』(いま新潮文庫)というのもあった。連想の行き着く先はこれを読み返してみたいということだった。


2013年10月9日(水)

夕方あたりから心臓が早鐘を打つようになった。ここ二、三年はときおりこういうことがある。一時間かそこらで治まる。今回は家に戻ってからも、その早鐘がやんわり残っている気がした。ふと、このとき血圧はどうなんだろう、という疑問を持って食事が終わったあとに測定してみた。

上133、下89でいつもよりかなり低い。ところが脈拍数が89に上がっている。これはいつもの倍近い値である。「びっくりして」もう一度測ると今度は血圧が上160,下140にまではね上がっていた。血圧は「気候、心理状態、体調、酒、睡眠…あらゆることが微妙に影響するものです」との友人の忠告を思い出した。脈拍89に反応したのである。ともあれ、早鐘は血圧と直接の関係はなさそうだ。

この夏の人間ドックでは「心電図:B判定;完全右脚ブロック」という結果が出ていた。同封のガイド本には「右脚ブロックは、右側に行く心臓の電気刺激の進み方に遅れる部分があるということです。健康な人にも見られる現象で、通常は問題ありません。」とあった。

そこで「完全右脚ブロック」と「右脚ブロック」のちがいをネットで調べてみた。完全の方が「遅れる周期」がより長いということはわかった。B判定の所以だろう。ここでは、生身のからだにどういう変化・症状をもたらすのかが本当は知りたいところだったが、深入りは止めることにした。こんなことを書いているうちに治まってきたからだ。

早鐘は寝不足のせいで起こった、決して、ときめきや驚きや感動(みな同じか)のためではない(残念ながら)という素人診断に落ち着いた。


2013年10月10日(木)

今日は「目の日」だという。10を右に90度回転させると眉毛と目玉になる。その10がふたつ並ぶから「おめめの日だよ」と中学受験をめざして塾に通ってきていた小6女子が教えてくれた。物知りだね、よく知っているね、と感心した覚えがある。

(たった4、5年ほど前のことである。そのころまで「現役」だったのだ、まだそんなに時間は経っていない、といっときの感傷にひたりそうになるが、それはここでの主旨ではない。)

携帯に内蔵されているカレンダーを見ると今日は「目の愛護デー」と書き込まれている。もっとも、このカレンダーは毎日が記念日(前後には、ミステリー記念日、木の日、トラックの日、ウインクの日が並ぶ)で、眉唾だと思っているが、これは信じてもいい記念日のひとつである。

だからというのではけっしてないが、やはり4年ぶりくらいにメガネ屋さんに行って、レンズを取り替えてもらった。われらくらいの歳になるとメガネは遠近、中近、近々ともうひとつは思い出せない(遠遠でも中中でもなかった)が4つ必要だと聞いてびっくりした。要は用途に応じて使い分けるのが賢明だというのである。

その他いろいろなアドバイスを受けたが、結局度数をかなり落とした近眼用のレンズを一対あつらえてもらった。帰りがけにも、

「長年使っていたレンズのきずや曇りのせいで見えづらいと思っていたかも知れませんが、そうではなく、度数が合わなくなっていたのですよ。できるだけいつも掛けるようにして、左右の目に均等の負担が行くようにして下さいね」と言われた。

ともあれ、新しいレンズは、遠くも近くもくっきりと映し出してくれ、見慣れた景色も改まって見えてくるので得したような気になった。


2013年10月12日(土)

比較民俗学者の奥西峻介氏の「タイの六芒星〜水辺をたどる(二)」(『図書』10月号)によると、タイにはかつて路傍に砂の塔を築く習わしがあった。公道の両側に作るのが本来のしきたりだったが、いまは僧院で行われている、という。

「砂塔の習わしはミャンマーにもある。原則として川岸に築くと聞けば、(中略)山から流れ来たり海へ流れ去る川は時間の隠喩となり、世界の根本とされたのだろう。」

なんとも美しい表現が生まれ、続けて、

「日本の神社に立砂(たてずな)あるいは盛砂(もりずな)という習慣がある。例えば、京都の加茂川辺の上賀茂神社の細殿(ほそぞの、玄関)前には左右に大きな砂の円錐が築かれる。

年に一度、上流の神山(こうやま)に神が降りるが、その山裾に設けられる現生所(みあれどころ、神が降臨する場)の門口にも盛り砂が作られる。昔は貴人を迎える儀礼として、玄関や門柱、さらに道筋にも立砂が作られた。

(中略)わが国の水商売が門口に塩の円錐を作り、「盛塩」と称するのも同様の習わしであろう。酒はもともとカミの飲み物ゆえ、酒に惹かれて訪れる者は客人(まれびと)ということになる。」

とここで思い出したのは鎮守の神社で行われる「神送り」と「神迎え」の儀式のことだった。

前日に鳥居下から本殿前まで10数メートルにわたって等間隔に置かれた盛砂(高さ10センチ、両手で包み込めるくらいの大きさの円錐。20個ほどもあっただろうか)を、頭上に三方を掲げた神主さんはまっ白の足袋で次々と踏みつぶしながら走る。ひとつ残らず踏まなければいけない、という。

朝まだき、である。境内を抜け、神殿の下を流れる川に入り、対岸の山へと向かっていく。神送りのとき、三方には神様が乗っている。神様が出雲(?)にむかって飛び立つと三方がふっと軽くなる。その瞬間(とき)まで神主は脇目もふらずに駈ける。

神迎えのときも同じように盛砂を踏んで走り、掲げた三方が重くなることで神が帰って来たことを知る。そこで引き返す。神無月・10月を挟んだ神事だった。

かつては、三方の軽重を感じるまで、川を渡って、山に入りこんだこともあると経験者の父から聞いたことがある。(ちなみにこの神社は、在所に住む家長が順番に五年間の厳しい修行ののち一年間だけ神主を勤める習わしである。ついには神の重さを知ることにもなるのである。)

聞くところによるといまは、見物の人たちがくずれた盛砂の砂を袋に詰めて持ち帰るそうである。ここ近年の流行だという。甲子園の土と同じで、持ち帰った砂をどうするのかはおおよそ見当はつくが、神を送り、神を迎えるために、敢えて盛砂を蹴散らせていくのは何故なのだろう。依然謎は解けない。


2013年10月14日(月)

10月10日は「おめめの日」と書いたところ「赤ちゃんの日でもあるそうですよ」と1歳のこどもを育てている教え子が教えてくれた。赤ちゃん本舗というお店で知ったという。それは母親のおなかの中にいる期間といわれる「十月十日」にちなんでいる。

いまだにこのことばが流通しているのに、はっとさせられた。ぼくは大学に入ってはじめて知った。それも春歌の一節だったような気がする。

ネット上では「とつきとおか」の「誤解」を糾す記述が多く見られる。いまや誰も使わないのだろう。それなのにみんなが知っていて記念日にもなるのは、妊娠・誕生の象徴としての地位を獲得しているからか。

ところで、その春歌である。前後がかすかに思い出されるだけで、なんの替え歌だったかも記憶に残っていない。

「歌詞 とつきとおか」で検索すると、栗山雄二&トライアングルの、題名もそのものずばり「十月十日 とつきとおか」がヒットした。さびは「心 冷えびえ 十月十日の 愛が泣く」である。これは意味不明というほかない。未来を孕む「とつきとおか」にこの歌詞は似合わないなぁと思った。

がっかりした。こんなことにうつつを抜かす自分にも。


2013年10月15日(火)

非常に強い台風26号が近づくなか、三年に及んだひとり暮らしがついに立ちゆかなくなった娘の引っ越しを行った。

近くのトヨタレンタカーで大型バンを借りて十数キロ先のアパートに向かう。二回往復するのだけは避けたい一心で、大物から順に積み込んでいった。ベッド、冷蔵庫、洗濯機のほかは、段ボール箱、ビニール袋に入っている本や衣料である。道路を挟んだ向かい側に駐車しているバンまでほとんどひとりで運んだ。車の荷台はぎゅうぎゅう詰めになった。10時からはじめて3時間後の13時にすべて片付いた。

こんなことはもう二度と無理だなぁ、と1年ほど前には思ったのに、またおなじことをやった。そして、やればできてしまうものだなぁ、とひとしきり感慨にひたった。これもまたあのときと同じだった。

レンタカーを借りての、いわば「自前引っ越し」、これで何回目だろうか。二人の子供の出入りが合わせて6回、そしてここに来るときも、二ヵ月かけて自分で荷物を運んだ。

今度こそ(歳を考えれば)、こんな形の引っ越しは最後となるだろう。前にもそう思いつつ、またやってしまったので、歴史は何度も繰り返すものかも知れないが。


2013年10月17日(木)

道路際で青いススキが揺れるのを見たとき、母のことが思い出された。

翌年結婚することになる配偶者を伴って帰郷したときだから40年ほど前のことである。一晩泊まった翌朝、母はススキを何本かとってきて配偶者に渡した。穂はもう真っ白だったから11月に入っていたのかも知れない。

その日は予定通り信楽に向かった。窯から窯へ、土ぼこりの舞う道を歩いた。配偶者は手に持ったススキをくるくる回したり、中空に掲げたりして、こどものように遊び心を全開にした。はじめて見る姿で新鮮だった。夕方京都から新幹線に乗って帰ってきた。ススキはしばらくの間配偶者のアパートに飾られ、水のない花瓶の中で独特の存在感を放っていた。

それにしてもなぜススキだったのだろうか、と40年も経って突然に思った。状況的に、太田道灌に山吹の花を差し出した里の少女の故事《七重八重 花は咲けども 山吹の み(実)の一つだに なきぞ悲しき》 に倣う必要はないわけだから、母にとってはごく自然なもてなし方だったのかも知れない。

そういえば、野に咲く花の類に向けるまなざしが案外と優しかったことを不肖の息子はいまごろになって気付くのである。

「自慢の息子」がこんな調子だと母も浮かばれまい。そこで意を決して「あのススキ覚えているかい? どこから見つけたきたのだろうかね」と訊くと、

「早起きのお義母さんだったから、早朝に近くの山に入ってわざわざ取ってきてくれたのよ。そんなことも知らなかったの」

と叱られた。やはりススキにはなにほどかの意味があったのだろう。

青いススキの穂もほどなく真っ白になって、原っぱのなかで風になびくようになるだろう。その状景は悠然たるものであって欲しいと切に願う。待ち遠しいのである。


2013年10月18日(金)

先日松本で米をつくっているTさんから新米が送られてきた。毎年送ってもらっているのでいまや楽しみになっているが、去年などはそのあとに長文の手紙(12月13日付参照)をもらい大いに感激したものだった。

早く礼状を書かねばと思いつつまだ果たせずにいる。あっという間に一年が経って、Tさんがこの年もお米作りに精を出して、収穫をしたことの喜びを書こうと思いつつ、翻ってわれは? と思うのである。

語るべき収穫はありやなしや。新しい年まであと二ヵ月余残っている。


2013年10月20日(日)

吉田知子が『群像』11月号に短篇「その年の七月」を発表している。文芸誌で作品に接するのは20年ぶりくらいである。

ここでは築100年の民家の離れに借家住まいをしている28歳の女性の「七月」が描写されるが、例によって日常感覚は希薄である。といって大きな事件が起こるわけではない。大家の立花夫人、同居することになった29歳の女性イラストレーターとそのかつての同居人である男、女中のフミなど、登場人物の言動はどれもがシュールなのである。日常に風穴を開けるような日々の記録には、畏るべきものが秘められているといわなければならない。

さらにこの作品には本文のあとにその約半分ほどの長さの「注」が付いている。

たとえば、

「私はわき青果店で稲荷鮨とセロリとハムを買った。」の「わき青果店」に10行にもわたる長い「注」が入る。

青果店で鮨? という疑問をスルーした読者(自分のこと)をもう一度立ち止まらせる。「玄関」「網戸」「カーテン」などにも「注」が入りその数は49項目に亘る。

これらの「注」の中にはたっぷりとした日常があったのである。「注」を読むことは不思議の扉を開けるような愉しさがあった。1934年生まれの作家は、その健在ぶりを見せてくれた。


2013年10月25日(金)

風雲急を告げる、といっても秋たけなわのはずの10月なのに次々と襲来する台風のことではなく、わが内々のことである。

いままでの日常が変わる、つまりささやかな変化にすぎないのに、順応するのに多少の時間がかかる。かつてのように喜ばしいものとして(変化を)受け留められなくなっている。慣れていくしかないのだと、何度も自分に言い聞かせている。

23日に配偶者が富良野に行き、15日に戻ってきた娘とふたりだけの生活がはじまった。ふたりの時間帯は完全にずれている。ぼくが出かける時、彼女はまだ寝ている。彼女が出かけて、しばらくするとぼくは帰ってくる。彼女が家に戻るのはおおむね深夜である。話し相手をしていると、3時頃まで起きている羽目に陥る。

必然的に朝が2時間遅くなった。この2時間はいままで「思索の時間(?)」だったのに、と嘆くのである。いわば、配偶者はいない、娘はいる、という二重苦であるか。

慣れていくしかないなぁ。その上でまた、新しい日常を構築してゆけばよい。本来順応は早いほうなのだが、こんどばかりは。思い立って血圧を測ってみると上が202、下が103となっていて、仰天した。カッカするのは止めよう、自分のからだのために、と思った。


2013年10月27日(日)

夜10時過ぎ電話が鳴った。ディスプレイを見ただけでよい知らせではないことを直感した。こんな時間に田舎の兄から電話が来ることはついぞないからだった。

「おまえ、びっくりすることだがな、……」最悪の知らせだった。たったいま大阪の義兄が病院で亡くなった。入院して1週間ほど経っていたらしい。そのことも知らずにいたが、容態が急変したという。

仕事の方もまだ現役で、その若い仲間に連れられて日本海に魚釣りに出かけている、と姉から聞いたのはつい何ヵ月か前だった。また近く逢う機会もできるだろう、となぜかホッとしたのを覚えている。

その少し前、夏に逝くことになる兄のことで直接話したときには、そんな状態(人工呼吸器、いろう)では辛いなぁ、ぽっくりと逝かせてほしいね、と苦しそうに言っていた。いまそれが自身のことを話していたように甦ってきて、いっそう悲しい。そんなに急いで逝かなくてもいいじゃないの、兄さん。


2013年10月29日(火)

大阪の通夜・葬儀に参加できないので、午前中に弔意を書いてテレックスで送った。ぼくが高校生の頃に姉と結婚したから、かれこれ50年にもわたって大きな厚誼を受けたことになる。職人気質のさっぱりとした義兄だった。 ぼくもそうだったが、配偶者なども一度逢っただけですっかりファンになっていた。あなたはダメだけど、親戚はいい人ばかり、という風なことを折々に言った。義兄もその一人であり、もちろんぼくに異論はなかった。

新たな同居人である娘は5連休の中日(なかび)の今日、起きるなり「のどが痛いよぉ」と言いはじめた。ゆうべ遅くまで怒鳴り合いながら話していたのでそのせいもあるだろうし、放射冷却現象とやらで夜中から明け方にかけて急に気温が下がったので引き風邪かも知れない。

自業自得といわんばかりのこちらの態度に業を煮やして、富良野の配偶者に直訴のメールをしたようだった。そのメールはすぐに転送されてきて中身を知ることになったが、配偶者からはかつて若かった頃のぼくの所行が娘の元に返信されていた。その一節は、読み聞かせてくれたところによると(大意)、

「大事な話があるときにはきまって自分の部屋にこもって出てこない。お休みの日もなかなか起きてこない。どんなときにも起きてきたときの第一声は、お、もうこんな時間か、だったよ。」

これには笑った。いまは早起きになってこんな台詞を吐く場面がなくなってしまったが、たしかにいつもいつも懲りずに「お、もうこんな時間か」と弁明とも修辞ともつかないことばを言っていた記憶がある。よく観察し、よく覚えているものだと感心する。


2013年10月30日(水)

インターホンはもう長い間壊れたままで、引っ越して来た当初何回か使った記憶がかろうじて残っているだけだ。

10日ほど前に玄関と居間を結ぶ無線チャイムを取り付けた。ボタンを押してもらえば、話すことはできないが誰かが来たことはわかるようになった。その音を聞いて飛び出していけばいいのである。

ところがあれ以来このチャイムを押した人がいないのである。(厳密に言えば誰もいない間に押した人がいるかも知れない)これはこれでさびしいので、自分で押してその音色を試してみるがなおいっそうわびしさは募る。ひるがえって「誰も押さないチャイム」というのもこの晩秋では絵になるのかも知れない。

本棚の整理を始めた友人から本が送られてきた。その中に『ユリイカ 現代詩の実験 12月臨時増刊 1974』があった。25名の詩人によるアンソロジーで、なかなか重厚である。

40年後のいま読んでも胸に迫ってくる詩もあれば、あぁあだ花だったのか、と思わせる詩もある。それらすべてをひっくるめて歴史であるのだろう。この増刊号は何年間かにわたって毎年出ていたようである。ちなみに編集人は三浦雅士。詩も含めて文芸があのようにも隆盛だった頃に戻ることはあるのだろうか。復興のチャイムを鳴らす人は誰かいるのだろうか。


2013年10月31日(木)

今日はじめてチャイムの音を聞いた。鳴らしたのは佐川急便だった。「佐川男子」というには少し薹が立っていた。

「宛名が書かれていなくて、番地だけでここに辿り着きました。まちがいありませんよね」と送り状を見せた。富良野にいる配偶者からの荷物だったので、送り人の欄を指差して「女房からなんですよ」と言わずもがなのことを言ってしまった。

うっかりしていたのにちがいない。介護疲れが昂じていたのかも知れない。はじめてチャイムが押されて、「宛名のない荷物」が無事届いたというわけで、なんとはなし可笑しくなった。


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