日  録 陽のぬくもりがとどく朝に


2014年12月1日(月)


今日から12月である。それにしても、早いなぁ、早すぎるなぁ。

ここ数年は、節目節目(節分、ひな祭り、端午の節句、お盆 etc)をこと革めて祝うことからも遠ざかっているので、日々のんべんだらりと過ぎていくような気がする。加えて、天変地異、気候変動と季節感がなくなったようにみえるから、かえって平板さに拍車がかかる。

と書いて、ちがうかなぁ? と思い直した。自然のせいにしてはいけない。のっぺらぼーの「内面」をまずは見つめるべきではないか。12月は、やはり反省の月である。


2014年12月2日(火)

午後11時、顔に当たる風がひんやりとした。いつもとちがう。車に乗り込むとフロントガラスが半ば凍てついている。この冬はじめてのことである。ウオッシャー液をかけてワイパーを回すとすぐにガラスのうえに霜ができる。いまは夜だが、冬の早朝の記憶が甦ってくる。癇性になおもワイパーを回し続けたが、霜はなかなか消えなかった。月齢9.6の月が皓皓と地上を照らし出していた。西日本では初雪が舞ったという。いよいよ、冬本番。


2014年12月4日(木)

ゆうべはキムチ鍋を作った。寒い夜だったし、りっぱな白菜が2個も残っていたからだった。それでも白菜は食べきれず、今朝の朝日新聞デジタルを眺めていると「白菜の水分だけでスープに」(渡辺有子 小さなこだわり)という記事(12月2日付)を見つけた。レシピを読めば、簡単そうである。これだと思い、早速挑戦してみた。

味はイマイチであった。白菜本来の甘さが出ていなかった。調味料(バター、塩)の分量をまちがえたのかも知れない。“自然の恵み”というのが目に見えない付加価値であると言い聞かせてほぼ平らげた。再度試みる価値もありそうだった。


2014年12月6日(土)

真冬並みの寒気団がやってきて、朝夕が寒い。今夜もキムチ鍋。こんなのをたしか「三日とあけずに」というのだろうと思った。ついでに「あけず」は「開けず」なのか「空けず」なのかと益体もない疑問に駆られた。

調べると、もともとは「三日に上げず」らしいとわかった。慣用的にはいくつものバリエーションがあるようだが、意味は共通していて「ほとんど毎日のように。間をおかず」。

ちなみに「三日」は三日坊主、三日天下などのようにきわめて短いことのたとえだそうである。「三」が短いというのは現代では通用しない感覚だろうと思う。とはいえ、二十数年前までは同人誌などで三号雑誌という言葉をよく使っていた。知らなかっただけでまんざらでもない「三」と思い知った。

「世の中は三日見ぬ間の(に)桜かな」(大島蓼太)という句もある。句の原義を離れて、桜の季節が早くも待ち遠しい。


2014年12月8日(月)

小指の先に血豆ができた。

朝、ゴミ置き場の鉄製扉を開けようとしてカギを外したそのとき激痛(大げさだが)が走った。一瞬のことだった。指先を立ててながめれば痛みの元には血豆があるのだった。何年ぶりのことだろう。小さな頃はあちこちによくできていたような気がする。走り回り、動き回ることの証しのようなものだったのだろう。ぼくらは少し訛って「ちんまめ」と呼んでいた。

アルバイト先でひと回り年下の女性に見せた。身体の先端のちっぽけな存在なのに、段ボール箱などを持ち上げるときには痛みが甦ってくるから、そのことを言ってみたかった。

「すぐに血を抜いた方がいいのでしょうか、それとも、固まってからだからはがれ落ちるのを待つのがいいのかしら」

「ああ、ぼくはあとの方」

一時的な黒子みたいなものだが、小指の先では、洒落にもならない。


2014年12月9日(火)

富良野で100歳の義父の介護にあたっている配偶者に一週間ぶりに電話をした。選挙どうする? と訊くと、投票したいから必要なものを送ってくれと言う。

市の選管に電話で問い合わせると次のような手順だと教えてくれた。

@いますぐ、市のホームページにアクセスして投票用紙の請求書をダウンロードのうえ印刷する。

Aそれを速達で選管宛に送る。選管は即座に投票用紙を奥様に送付する。

B奥様は記入を済ませた投票用紙をお近くの投票所(富良野市役所)に持って行く。

これらを11日までにやらねばならないので、ことは急を要する、おまけに北海道となると……こちらも郵便局に事情を確かめてみますが、とまずは親切に応対してくれた。

ところが@にしてすでにアウトである。インターネットにつながるパソコンはない。諦めるしかないと選管の人に言い、その旨を配偶者にも言った。貴重な「反自民」(おそらく)の一票をのがした。もう少し早く対応しておればよかったのである。

二回目の電話の最後に、何日に帰ってくる? と訊けば小さな声で、帰るところがない、とのたまう。何をアホなことを言っている、とさとすと「一応25日だけど」。

10月から二ヵ月以上介護を続け、気疲れもあるのだろう。さらに、背景には家庭内のいくつかの確執もある。その責任はなべてこちらにある。そんな生活がいつしか丸4年になろうとしている。理想と現実の溝は永遠のものなのか。政治マターではないのだろうが。


2014年12月10日(水)

アルバイト先に、いままではいなかった女性が4人入ってきてそのうちのひとりがぼくのことを「タオルのフクちゃん」と呼んでいる。いつもタオルを首に巻いているから奇異な感じを持ったのだろう、仕事を始めて早々からそんな風に識別していたらしい。

倉庫の中は気温が10℃前後に保たれているので、夏でも冬でも、どんなに激しい仕事をしても汗をかくということはない。なのにタオルである。

今日、汗っかきか、そうでないかという話の延長で、仲間が「あまり汗をかかないようですが、そのタオルは何に使うの?」と訊いてきた。

まわりに女性はいなかったので、主にみずばなを拭くんです。汗の代わりに鼻水が出るのかも知れない。いまなお、はなったれ小僧ですから、と答えた。半ばは本当、半分は嘘である。

手を拭くのでちょっと貸して下さい、と言えないですね。

いえいえ、喜んでお貸ししますよ。

これは品のない冗談としても、毎日洗い立てのタオルを持って行く。忘れたときの不安感、喪失感といったら半端ではない。ハンカチではダメなのか、なぜタオルなのか。考え出すと自分でもわからなくなってしまう。

すると、幼児がそれを抱きかかえていないと眠れないという布きれ(わが家では「ねんねこ」と呼んでいた)と同じようなものかも知れないと思い至った。やっぱり、いくつになっても、餓鬼のままか。


2014年12月11日(木)

雨の予報なのに洗濯。干しながら外を見れば、侘び助の木に花がひとつ咲いている。冬さびた庭に、真っ白いつぶらな花が映える。真冬、あるいは真冬並みの寒さにむけて、ひとつ、またひとつとつぼみが開いていくと思えばほっと心なごむようである。

この木も楓、金木犀と一緒に前の住まいから持って来たものである。ということは、これもまた丸十年ここに在り続ける。他の二本は大きすぎて近所の『豊美園』(造園業者)に頼んだが、これはデミオの荷台に積んで運び、自分で植えた覚えがある。

大木移植の何日かあと、ケアに来てくれた先代がいい木だとほめてくれた。茶の湯をたしなむ先代は、

「開くか、開かないかという寸前のつぼみを茶の席に持ってきてくれ、と何度も頼まれます。これがなかなかにむつかしい」
「素人には、もっともっと困難な見極めですね」

そんな会話も思い出された。当時いまのぼくと同じくらいの歳だったが、元気に暮らしておられるだろうか。


2014年12月12日(金)

キュウリを買い物かごに忘れてきたらしい。ビニールのレジ袋に入れた記憶がないことは、家に戻ってから「ない、ない」とひとしきりひとりで騒いだ末に思い出された。濃緑のキュウリは紺色の買い物かごの底に隠れていた。こんなのを擬態の一種、保護色と言ったか。不覚だった。

鯖や牛乳などよりもキュウリを買わんがためにスーパーに入ったのである。ポテトサラダにキュウリを入れてみることがここ何ヵ月かの懸案だった。緑のキュウリが入ればサラダは映え、塩ののりもよくなるだろうと思っていた。つくづく残念である。

野菜売り場をぐるぐる回ってやっと見つけたのだった。まだ若い奥さんがばら売りのかご(あと10本もなかった)の中から一本手に持って、結局元に戻した。そのあとに一本(同じやつかどうかはわからない)をとり、ぼくは買う意志を示すようにかごに入れたのだった。レシートにキュウリ一本69円(税抜き値段)と印字されているのでまちがいない。

悔しい気持ちは長く続いたが、予定通りポテトサラダは作った。できあがって食べる頃にはあきらめがついた。大好物だからだろう。


2014年12月14日(日)

高校生になってすぐの国語の授業で「尾籠」(びろう)という言葉をはじめて知った。大学を出てすぐの先生が課題として作ってくれたプリントの文章の出だしが「尾籠な話で恐縮だが……」というものだった。

小林秀雄の論文(エッセー)ではなかったかと思うが、確信はない。以来、この言葉は脳内に深く刻まれ、いまだに機会あれば(真似して)使おうと狙っている。今日は何回目だろう。なめくじを一匹退治したのである。

わが家のなめくじは主に台所と風呂場に出現する。何ヵ月に一度の割合で、のそりのそりと出てくる。蚊や蝿とちがって取り逃がすことは絶対にないから、ほんとうは退治などと大きな声では言えない。ティッシュに何重にもくるんで捨てた。昔は塩をふりかけるという「手」も使った。いまはそんなことはしないが、残酷さにおいてはどちらも同じである。

さきに何ヵ月に一度、と書いたが、このなめくじ、けっして大量発生はしないのである。つねにたった一匹である。つい「なめくじの領分」というのを考えて見たくなる。どこから来て、どこへ行こうとしているのか。ぼくに見つかると目的も果たせなくなるではないか。しっかり自分の領分を守るように、あとに続くものたちに言っておいておくれ。

見ると退治せざるを得ないという、尾籠(おこ)な話。


2014年12月16日(火)

ことしもまた、元同僚のTさんが自作のお米を送ってくれた。同梱されていた手紙には、

「松本に帰り着いて部屋に坐った途端グラッときました。火山爆発といい、この地震といい、政治も経済も人間が馬鹿なことをしているので“山の神様”が怒っていらっしゃる。/しかし一方で大地は恵みをもたらしてくれています。今、窓の外は吹雪です。明朝米を少しばかりお送りします。」

とあった。その夜早速炊いていただいた。甘くとろけるようでありながら、ほくほくとした歯ごたえがある、まさに安曇野の味だと思った。

この夏、学生のときの畏友三人と筑北を通って黒部まで行った。ひとりになった帰りには、インターチェンジをめざしながら松本の市街地を走り抜けた。これがTさんの生まれ育った土地かと感じ入ったのである。その地で栽培されたお米を食べながら同じような感動が甦った。

福岡の息子夫婦にもこの味を、と半分を段ボール箱に詰めた。発送のために車に乗ると、目の前のムラサキシキブの茂みにジョウビタキがいる。茂みから出てきたところを携帯で撮った。寒そうに震えていたが、里に来てえさにはありつけたようだった。


2014年12月18日(木)

甲信越、東北、北海道、東海で大雪が降り、強風が吹き荒れた。上空の寒気と爆弾低気圧の影響だそうだが、テレビで映される天気図を見ると等圧線が縦に狭い間隔でたくさん並んでいる。

それを見た娘が「なに、これ。気持ち悪い」と言った。ぼくは冬型の縞模様としてはなかなか綺麗ではないかなどと思う方だが、この異常気象で命を落とした人や怪我をした人がいることを思えばこれはむしろ不謹慎な感想である。娘の方が正常である。ところがすぐあとに「ところで、この線はなんなの? 空にこんな線が書いてあるの?」などと幼児のような質問をした。誰に似たのか感覚だけで生きている。

名古屋市では未明から早朝にかけて9年ぶりの大雪が降ったという。早速同市在住のO君にお見舞いメールを送った。末尾に「無駄な外出などせず、くれぐれもご注意を」と書き添えたのはまったくの蛇足だった。

ことし二月2度にわたる大雪で、車で出かけて立ち往生したり、電車で帰り着いたはいいが家のカギを車に置きっぱなしにして長い時間中に入れなかったり、と散々往生こいたのは自分自身だったからだ。10ヵ月前の、まだ生々しい記憶である。


2014年12月21日(日)

冷たい雨が降った。はじめは小降りだったが夕刻頃からは本格的になった。それが昨20日のことで今日は一転、晴れた。このことを予想して、ゆうべのうちに洗濯を済ませておいた。といっても外に干したまま出かけることはできない。日の当たる窓辺に吊しておくのがせめてもの工夫である。

朝6時くらいから机の上のパソコンに向かう。7時になると空が明るくなる。さらに30分も経つと上ったばかりの太陽の光りが窓越しに差し込んでくる。洗濯物が吊り下げてある右半分の窓の障子戸を開ける。

左が東の方角にあたるので陽光は障子戸の閉まった方から差してくる。そこで、障子戸をすべて右に寄せる。すると机に坐っているぼくのからだに陽が当たる。得も言われぬぬくもりにくるまれる。それが8時頃から机を離れるまでの30分ほど続く。至福である。冬の愉しみである。洗濯物もわれも似たようなものか。


2014年12月22日(月)

仕事から戻ってすぐ風呂に入ったが“ゆず湯”ではなく、玄関にカボチャを飾ったままにしているが“カボチャ”は食べず、寒さは随分ゆるんだ一日だったが“キムチ鍋”にした。そんな冬至の日。

夜テレビで『それでもぼくはやっていない』(周防正行監督作品)を観ていると弁護士役の女性(瀬戸朝香)が法廷のなかで左手で書き物をしているので「あ、ぎっちょ」と思わず叫んだ。久しぶりに口を衝いて出たことばだった。いまや世間の人たちもめったに使わない。死語と言っていいのかも知れない。だからこそなのか、その由来が気になった。

ネットには「左義長」からはじまっていくつかの“語源”が紹介されていたが、どれも目から鱗が落ちるということはなかった。なんとなくかなり昔から流通していた言葉だという気はしたから、「ぶきっちょ」を「不器用」にあて、「ひだりぎっちょ」を「左器用」の転訛とするのはこじつけめいていると思った。ところで、

右大臣と左大臣どちらが上?
右? それとも左? (政治や味覚で応用される)
弓手(ゆんで)と馬手(まて)は右利きの人を想定している。
ぼくの右腕になって欲しい、という言い方もある。

右と左は面白い。


2014年12月23日(火)

お昼前に、置き薬『田村薬品』の田村さんがやってきた。2011年12月19日以来の「集金訪問」だった。ぼくはその年の11月末に怪我をして自宅で療養していた。なぜこけて膝の皿を割る羽目になったのかを、懇々と解説してくれた。それは歩き方の指南にまで及んだ。先にそれを聞いておればこんな目に合わなかったのに、と因果は逆にもかかわらず口惜しい思いをしたものだった。

「この仕事、もうやめることにしました」

田村さんは開口一番そう言った。歳月はすごいスピードで過ぎていくが、三年も集金がないというのはやはりヘンで、どうしているのかな、と何度か思った。だから、

「どうされました。からだの具合でも悪くなった?」と訊いた。

「もう置き薬の時代ではないですものね。経費もかさむし、体力もいる。年金ともうひとつの時給802円の気楽なバイトでやっていきます」

わが家にはもうひとつ薬箱があり、ほぼ同じ時期においてもらったから両方とも30年を越える付き合いとなる。『田村薬品』とはこれで縁が切れてしまうが、30年もどこか一期一会の趣である。もうひとつのと区別するためのわが家での別称は「頭のいい薬屋さん」だった。いまならさしずめ「スマートなドラッグさん」か、などと埒のないことで感傷を消した。


2014年12月24日(水)

春雨入りのプルコギの素(モランボン製品)を使ってプルコギ作りに挑戦してみた。野菜を入れて甘辛く仕上げる韓国の肉料理である。肉にからめるたれは付属していた。たまねぎ、ニラ束のほかに人参を添えると彩りが豊かになるなどと書いてあるのでそうした。レシピにしたがって3〜4人分を作り、2人で平らげた。

韓国語でプルは火、コギは肉だとはじめて知った。日本語に訳すと随分無粋な料理名となってしまうが、ハングル文字同様プルコギという響きは心地よい。Webによれば李朝時代からの受け継がれる料理で、専用の鍋(バン)も種々あるという。月並みだが、料理の名前も含めて「食は文化」と実感した。


2014年12月27日(土)

今年も今日を入れてあと5日となった。こんどの年末年始は暦通りの“出勤”となる予定で、格別にあらたまった感じはしなくなる。

朝終夜営業のお店に立ち寄って、休憩時のおやつ用にとまんじゅうなど3点を手にレジに立った。レジ係の女性はかごから取り出した拍子にそのまんじゅうを床に落としてしまった。すぐに拾い上げて、上着の裾で両面をこすった。そしてバーコードを読み取って買い物かごに入れた。その一連の動作が家庭内の出来事のように見えて、なつかしい反面、それゆえの異和感を覚えた。

よく行く店だが、はじめて見る女性だった。50すぎの主婦というところである。こういうときはとり替えるのではないだろうか、と一瞬思った。そういうことがかつて一、二度あり、自ら売り場に走ってとり替えてくれたような気もした。

「ちょっと待って。それと同じ物を持ってくるので」

とぼくは言った。レジの女性はキョトンとした表情でぼくの顔を見た。包装紙にくるまれているので別に構わないという思いもあったが、口を衝いて出た以上もう引き返せない。

床に落ちたまんじゅうはもう一度売り場に並べられ、誰かが手に取るかも知れない。あるいはとり替えたまんじゅうだって一度そういう運命にあっているかも知れない。自らの服で汚れを拭いてくれたのが最大の誠意ではなかっただろうか。ひと昔前なら平気にやりすごしていたことである。

挙げ句、だんだん気むずかしい爺さんになっていくのか、とこの選択を反芻していた。


2014年12月29日(月)

帰りがけに、前夜娘が置いたままにしてきた自転車を市営駐輪場からデミオで回収した。後部座席を倒し、うしろの扉を開け、車体を横にしてハンドルの方から突っ込む。前輪が前の座席の背もたれの下に沈み込むようにするとキレイに収まる。

この“大技”を編み出して何年になるだろうか。配偶者が深夜から夜明けにかけての仕事をしはじめた頃だから、もう10年以上前のことになる。配偶者は片道6キロの道のりを自転車で行き、帰りは自転車と一緒に車で家まで運ばれてくる。そういう日が数え切れないほどあった。

昔とった杵柄で、首尾よく荷台に積み込み、運転席に戻ったそのとき、1台の車が後方をよぎった。こちらと同じような大きさの車は斜めうしろに停まった。若者が降りてきて、駐輪場に向かう。同じ用事か、思わず笑みが漏れる。お手並み拝見とばかりに様子をうかがった。ハッチバックを開けるところまでは一緒だった。

ところが、そのあと若者は自転車を折りたたんで胸にだかえたまま荷台の隙間に突っ込んだ。あっという間の仕事ぶりだった。唖然とした。これは離れ業である。ハイテクである。

ローテク世代の人間には痛恨のエピソードとなった。それでも、そんな一年が終わり、そんな一年がまた始まることは、めでたいのである。


2014年12月31日(水)

いよいよ大晦日を迎える。午前7時、畑の向こうに真紅の太陽が昇ってきた。30分後には椅子に坐るぼくの顔を窓越しに直撃する。さらに10分も経つとからだ全体がぬくもりに包まれる。日の出の位置がだんだん東の方へ移動していくので、出勤前のこの至福はやがて已むだろう。そのときはまた新たな喜びを見出そうと思っている。

みなさん、どうかよい年をお迎え下さい。

明年もご愛読のほどよろしくお願いします。


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