日  録 空耳と聞きちがえの春よ

2015年3月1日(日)

あれよあれよと2月が終わった。2、3日少ないこの月は得なのか損なのか。得なところは月々の生計に頼る身には“飛び級”のような福音となることであり、損なところは早々と時が過ぎると感じさせられることである。もとより日数(ひかず)にそんな功利はないわけで、過ぎてしまえばやはり儚い2月であり、いずれ損得を超えていくのだった。

3月の初日は雨だった。「雨が好きです」というフレーズを反芻しながら、土砂ぶりの雨に打たれて駐車場までの200メートルを歩いていた。冷たくはなかった、さりとてあたたかいとも断言できず、雨は肌に沁みていった。

仕事時間が1時間増えて4日が過ぎたところだ。徐々にからだは慣れてきたが、貴重だった朝の“魂の時間”を取り戻すことはまだできていない。起床を早めるしかないか。これぞサマータイムならでスプリングタイムだ。


2015年3月3日(火)

今日はもともとの休日だったが、出勤して欲しいと頼まれた。昨日のことである。同僚(仮にHさん)が前日(1日)の夜、帰宅途中に怪我をしたので員数が足りないという。いまや待ち兼ねたともいうべき休日だが、そういう事情ならばといさぎよく応じた。

朝、駐車場で一緒になった人から「あれ、休みじゃなかったの?」と訊かれた。「Hさんが自転車で帰宅途中に電信柱にぶつかったらしい。全治一週間というので、その代わり」と答えた。

その夜は土砂ぶりの雨が降っていた。傘をさして車道を走っているときに電信柱に衝突した。その拍子に自転車もろともに転倒した。伝聞によれば、そういうことだった。

ところが仕事場の倉庫に入るとそのHさんがいるのである。すぐに近づいて、大丈夫? と聞けば「医者は安静にしてて下さいというんですがね」見かけは元気である。「代わりに来たのにぃ」とふくれてみせると顛末を話してくれた。

「一方通行の道でした。向こうから来る車がライトを上向きにしていたので、目眩ましに合ったんです。電信柱は折れ曲がるようにしてぐっと迫ってきましたよ。自分で救急車を呼びました。警察も来て、事故扱いにするならいろいろ事情をお聞きしますが、どうします? と訊かれたがいいですとことわり、となりの市の病院に運ばれ、うちに帰ったのは11時過ぎでしたよ」

どこに災難が待ちかまえているかわからないものである。どんなに注意していても魔が差す瞬間はある。ふたつしかない膝の皿をふたつとも転んで割ってしまったドジな身ながら、それでも生きることは味わい深い、と言ってみたい。命あっての物種だ。


2015年3月4日(水)

《その年の女の節句の朝、突然、兄は、家の庭の木に首をつって死んだ。姉は家にやってきた。寒い日だった。母に物も言わず、いきなり抱きついた。姉の口からもれる息が白くみえた。呻きが声にならず、白い息になっている。彼は二人をみていた。あまりにもあっけなかった。あんなに繰り返し繰り返し、刃物や鉄斧を持って、母や彼を殺しに来たのに、血をみることもなく、憎んでいる彼や母の悲鳴をきくこともなく、ぷっつり死んだ。(中上健次「岬」より)》

この数節を見つけるために『岬』を本棚の奥から取り出した。「女の節句」が3月3日であるということの連想だったが、やはりこれは中上健次の絶唱であるのかと思った。

彼とは24歳の「秋幸」である。そのあと『枯木灘』(28歳)『地の果て 至上の時』(30代後半?) へと語り継がれる主人公である。連想ついでに『地の果て 至上の時』に登場する婚約者「紀子」はとても魅力ある女性だったことを思い出した。そこには無償の愛が存分に描かれていたように思う。それは夭折したこの作家自身が渇望した愛ではなかったかと思うのである。


2015年3月8日(日)

雨の日は外にいると1.5キロ先を走る私鉄電車の音がよく聞こえる。なかなか風情があると思うが、

家の中で静寂を縫って聞こえてくる音は、たとえばご飯が炊き上がったことをしらせる電子音に似ていたり、ジーンとただ耳奥で低い唸り声を立てるだけだったりする。耳を澄ませば近くの路上をバイクが駆けていることもあるが、実際の音とは思えない。つまりは幻聴である。

聴力検査で3年続けて「音域によっては聞きとれていませんね」と指摘されてきた。2年目のときに、耳あかのせいもありますか? と担当技師に訊けば、キレイにした途端に解消した方もいますけれど、という返答を聞き出している。実際耳の道は痞えているような気がしている。聞こえづらい音域があるということは逆に聞こえない音も聞こえるということではないかと希望的な解釈をして、いまのところ耳鼻科に行く気はない。

あまり聞きたくないことはもはや聞こえてこないようになっているのかも知れない。生理的な「着信拒否」であるが、一方で、あやしいはずの幻の音は是非とも聞いてみたいとも思うのである。想像を刺激するからである。

そんな埒もないことを考えていたら、耳の中からおおきな耳あか出てくる夢を見た。 それはそれですっきりするのだったが、その結果、幻の音どもが途絶えたかどうかはわからない。夢のつづきを俟つしかない。


2015年3月10日(火)

午前4時半、起き上がって枕元を見下ろすと読みかけの本の上にテントウムシが張り付いている。じっと動かない。いままで一緒にならんで眠っていたのかと思うと奇妙な恍惚感を覚えた。それにしても「啓蟄」(3月6日)とはよくぞ名づけたものだ。ことし初めてのテントウムシ、どこからやってきて、どこへいこうとしているのか。

fb上で「部屋で、なんか視線感じて振り返ったら…/てんとう虫さんが壁にいらっしゃいました。春ですね」という年若い女性の記事を読んだのが3月7日だった。中学生のころをよく知っているこの友人の感受性はいまもなかなかに繊細である。

数日経ってついにぼくは添い寝をするほどにお近づきになったわけだ。漢字では天道虫と書くらしい。ちなみに本の題名は流離譚である。



午前中に銀行、菓子舗、郵便局へと車を走らせた。すべての用を済ませると正午近くになっていたのでお昼の惣菜を買って帰ろうと思い立った。スーパーに向かう途中で豊美園の前を通りかかった。先代が自宅前の道路を隔てた倉庫から出てくるところだった。10年前の1月に紅葉と金木犀を前の住まいから移植してくれたのが当時65歳だった先代社長である。お姿を眺め回すうちに信号のある交叉点を右折していた。声を掛けそびれたが依然矍鑠とした歩きぶりだったのでほっとした。先代もこちらの顔を長い間覗き込んでいたように思うが気付いてくれたかどうかは心許ない。

夜、二ヵ月ぶりに配偶者が帰ってきた。並べたベッドの上で熟睡しているすがたは、テントウムシの比ではないほどいとおしいものである。そう思えるほどにぼくも年輪を重ねてきたということだろうか。


2015年3月13日(金)

ここ何日か筋肉と関節のじわじわとした痛みを感じるようになった。直接的には2週間ほど前から仕事時間が1時間長くなったことに起因しているにちがいないが、春のおとずれとも無関係ではないだろう。

5時に目が覚めても、まだ眠りが足りない。“春眠暁を覚えず”とはちょっと異質な感覚。目覚ましをセットしてふたたび布団にもぐり込んで小一時間ばかり仮眠をとる。それでようやく身体がまともな活動態勢にはいる、そんな朝が続いた。はじめからその小一時間分を眠っていればいいようなものなのに、5時にはいったん目が覚めてしまうのである。

冬から春へ、これを異変とは呼ばず、過渡期の感覚、と。辞書には「過渡期とはふるい物から新しい物に移り変わっていく時期」とあった。いい言葉に着地した、と自画自賛。


2015年3月17日(火)

昨夜日付が変わる前後に龍眼の鉢植えを外に出した。肌寒くなってきた昨年11月に玄関の中に仕舞ったので約4ヵ月ぶりとなる。けっこう重いのにこんな時間に決行したのは夜来の雨に打たれて欲しいからだった。寒さに弱いとはいえ長い間外の空気(自然)から遠ざかっていた不憫さを思ったのである。たいして雨は降らなかったようなのでこの目論見は外れたが、日中20度近い陽気のなかで龍眼はのびのびとして見えた。

6日ぶりの休日に懸案のどぶ浚えをした。台所で使った水が最初のたまり場で溢れかえってまわりが水浸しになるのだった。次の中継地までの鉄管(直径50ミリほどの細いもの)に泥土が溜まっているからである。なぜ泥土が溜まるのかというとたまり場のコンクリートがこわれていてまわりから泥が入り込むからである。定期的に清掃しないと、下水に辿り着くも何も、最初の段階で垂れ流しとなってしまう。先回やってから、もう半年は経っていると思われる。

台所直下から次の中継地までの5メートルほどの鉄管に螺旋状の鋼鉄ワイヤーを差し込んでいくと、2、3メートルのところで痞えた。そこで押したり引いたりして泥土をほぐすのである。反対側からもワイヤーを差し込んで同じようなことをする。手や顔にヘドロのような泥土が跳ね返ってくる。最初は気になったが、そのうちに慣れてくる。貫通させるという大きな目的があるからだ。

この作業の時はきまって、道路下の下水につながる大きな水槽がつまったとき素手を突っ込んで痞えを取り除いてくれた近所の人を思い出す。こちらのへっぴり腰を余程見かねたうえで手伝ってくれたのであった。自分らの出した汚泥だ、何をためらうことがある、こちらの覚悟も促す助っ人ぶりだった。

今回は貫通するまでに先回よりも時間がかかった。長い間ほったらかしにし過ぎたか。こんどはもっと早くやろう。先回もそんな反省をしたような気がする。またもや懸案になりそうな予感がする。


2015年3月19日(木)

金沢には2回行ったことがある。一度目は勤め先の親睦旅行。行き先だけは決まっていたが、そのほかは行き当たりばったりの旅だった。夕方近く市内に入ってからさがした宿は黒塀に長屋門という格式のある旅館だった。夜には香林坊に繰り出してスナックに入った。同行4人で「北国の春」を唄った。帰りには内灘にも立ち寄った。仕事にひと区切りついたちょうどいま頃のことだった。

それから何年かあと甥が金沢で結婚式を挙げた。ときおりエンストするようになったポンコツ車を駆って家族4人で出かけた。往復1000キロ以上の旅だった。式のあと親族10人ほどで兼六園や近江町市場を散策した。季節は秋だったろうか。

今日本屋さんで五木寛之の金沢についてのエッセーを集めた本を見つけた。新幹線の開業に合わせたアンソロジーのようだった。もしやと思って捲ってみると、断片が頭の隅にこびりついて中身をいまいちど確かめてみたいと思っていた「去年の雪、いまいずこ?」が掲載されていた。初出が「毎日新聞」とある。まちがいなく、それだと思った。

ところが立ち読みしてみると記憶とずいぶんちがっていた。ぼくの記憶の中では、

やがて聞こえてくるはずの同居人の足音をいまかいまかと待ち望む気持ちが惻々と唄われていた。アパートで待つのは有為の若者である。外は白の世界、その静寂はいつの日か破れていくとしてもこの心情を忘れまい、という覚悟が滲み出ていた。つまり「去年の雪」とは比喩であり、象徴であったから長く心に残っているのだった。

今回、別のエッセーと混同していることがわかった。どこかでタイトルと中身がすり替わったのだろう。40数年も経てば、ことばは血となり肉となって、原形はいずこ? となる。それもまた読書の醍醐味だろう。


2015年3月22日(日)

歎異抄にある親鸞のことば「地獄は一定すみかぞかし」。石和鷹の小説の表題となっていたから知っていることばであり、いわば聞きかじりみたいなものである。これを思い出したのはこの小説の副題になっている「暁烏敏(あけがらす はや)」からである。

元のきっかけは学生時代からの友人が「あけがらし」を送ってくれるというメールである。上司の上司が醸造元(山形・山一醤油)の御曹司であった関係でこの逸品を知り、好んで食してきた。地元神戸で入手できることを知ったので貴兄にも、と言うてくれたのである。

なぜ送ってくれることになったかというと、味噌と麻の実と芥子の秘伝の逸品を「あけがらし」と命名したのは谷川俊太郎の父親谷川徹三であり、「midnight press WEB版13」に 俊太郎の詩が出ていたからである(友人は『midnight press』の愛読者)。

そのY君によると、先々代が学生時代同宿の徹三とこれを肴に酒を酌み交わし夜明けを迎えた。落語の「明け烏」にちなんで「明け芥子」と呼ぼうと徹三が言った。以来山一醤油はこれを商標にしてきた。

「谷川徹三、俊太郎、山一醤油製造の3代に亘る「斎藤弥助」のいわく因縁でも想い出しながら……」とも言うてくれるのであった。その波紋がぼくのなかでは「あけがらし、明け烏、暁烏敏、さらに地獄は一定」へと広がった。

まるで「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいなめぐり巡る物語のようになった。吹いた風はあきらかに「midnight press」であるが、ぼくが到達した冒頭のことばは行き過ぎていた。立ち止まって考えてはみたが深いところはやはりわからない。今回は思いがけず桶屋になったという感じだけがするのである。

今朝届いた 「あけがらし」は友人の推奨するとおり、辛みが口の中でとろけるような味わいで、食欲を増進させる。この初物、今風に言えばヤバかった。(敬称はすべて省略させてもらいました)


2015年3月24日(火)

運転手役として行ったホームセンターではいったん一緒に店の中に入ったものの、北よりの風のあまりの冷たさに中で待つと言って車に引き返した。陽光は春のあたたかさだったが、朝起きてすぐからの鼻水が4、5時間経っても治まらない。アホエンのおかげで5年来一度も引いたことがない風邪はまずあり得ないし、この歳になって突然花粉症というのもヘンだなどと考えながら車の中でも懸命に鼻をかんでいた。

正午ごろに家に戻り、昼食を食べ、ソファで30分ほど居眠りをし終えると、鼻水はぴたっと已んでいた。冬に戻ったような気候も気候なら、からだもいっときの異変に見舞われた。

庭にレンギョウの黄色、ユキヤナギの白、それにプラムの枝に満載のつぼみを見た以外何の収穫もないのかと思いきや、「かむ」に当てる漢字がわかった。てへんに鼻だそうである。ティッシュは紙だから、今ならいとへんになるところだ。


2015年3月27日(金)

夜中に月を見た。 月齢は6.71だという。半月(上弦の月)まであと一日の月であり、昼間よりもぐっと冷え込んだ空気のなかでひときわ冴えわたっていた。朝行きがけに見た富士山を反芻していた。橋からよりも、畑のむこうに霞んでいるよりも、ずっと大きかった。手前には民家や低いビルが密集し左半分がすぐそこにあるように大きく見えた。5、6年前に塩山の恵林寺から見た富士山もあんなに大きくみえはしなかった。どの場所だったか。

たった十数時間前の記憶をまさぐっていると、いつもは通らない道を走っているときだったことを思い出した。渋滞を避けて(ふと思い付いて)サイボクハムの交叉点で右折してしばらく走ったときだった。あれが西に向かう道だった。あとはすべて南進である。富士山は右手に見える。

街におおいかぶさるような富士山、もう一度見てみたいと思った。


2015年3月31日(火)

「ちば」と「しが」はよくまちがえてしまう。わが故郷のニュースかと 耳をそばだてていると「千葉県」だったということが間々ある。字面からは絶対まちがうはずはないのに、耳が聞きまちがえる。

5、6年前の深夜、急用ができて配偶者の勤め先に行った。一階の受付で呼び出してもらえないかと頼むとほどなくして別人が降りてきた。その人は「久保田さん」だった。取り次いでくれた人には「ふくもと」が「くぼた」と聞こえたのである。もう一度、名前を呼ばれる場面(病院だったか?)で、こんどは自分の耳が「くぼた」を「ふくもと」と聞きちがえたことがあった。

似て非なるもの、などというと「ちば」や「久保田さん」に失礼だが、なぜこんなことが起こるのだろうか、は考えてみる価値がありそうだ。母音やイントネーションに関係があるのだろうか。

しかし最近は、

「え、いまなんて?」

ドラマのセリフみたいな言い回しで聞き返すことが多くなったことを大いに反省して、聞こえなかったところは想像で補って答えるようにしている。ときにシュールな会話になったりするが、それもまた面白いと感じるのである。とんちんかんな会話は、人生そのものであるようだから。



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