日  録 ながーい一日

 2011年11月1日(火)
     
前篇

サツマイモを掘る日、と決めていた。何年前か忘れたが、最初の年はよい出来で“秋の味”を堪能したが、次の年からは毎年サツマイモに関してはさんざんだった。二年連続で、モグラかネズミかにかじられて全滅だったこともある。去年は、葉が異様に茂り、肝心のイモは小振りにすぎた。
今年は、 土壌が合わないということもあるのだろう、とこの地方で多く栽培されている品種(紅東)をTさんは植えてくれたようである。午後から掘る予定だが、出来が楽しみである。園児の「イモ掘り遠足」のようである。

後篇

大豊作であった。ひと畝だから数は20個程度だったが、一つ一つが大きい。中の一つはカボチャのようなカタチをしていた。かりに“自転車の荷台”に載せて写真を撮ってみたが、しばらく家の中のどこぞに飾っておきたいくらいである。食べるにしても、どうやって切るんだ? そんな心配さえしたくなる。重さは約1.5キロだった。

収穫し終えて、土や蔓葉(つるは)などを片づけていると、学齢前の近所の子供が3人走り寄ってきた。
「おじさん、何しているの?」
「イモ掘り? わたし行ったことあるよ」
「もう終わったんだ。大きいのが穫れた。庭に置いてあるから、見ておいで。黄色い車のあるとこだよ」
3人は道路を横切って庭に入っていった。感動した顔ですぐに戻ってきた。

「ダンゴムシがいっぱいいるんだ」
「欲しい! 欲しい!」
かくて土の中のダンゴムシを捕まえては3人の掌に等分に乗せる羽目に陥った。
「あ、いま八つ。☆☆ちゃんは?」
「まだ、五つ。もっとちょうだい」

ダンゴムシ、土に隠れたのか、なかなか見つからなくなっていた。
それぞれのお母さんに促されて家に帰るとき、3人は掌のダンゴムシを土にリリースしていた。
ボクの「イモ掘り遠足」もとんだ方向に展開したものだが、ダンゴムシをつかんでも平気な子供たちにはなぜか感動を覚えた。




2011年11月3日(木)

祝日のため昼に繰り上がった授業を終えて
国立から新宿に急行した。ホテルで出迎えるつもりだったが、ホテルに着くと同時に電話がかかってきた。宮崎の友人・M夫妻はすでにチェックインを済ませ部屋の中にいたのであった。逢うのは何年ぶりになるのか、数えるのも大儀なほど時が経っている。

学生時代を過ごした街で別れてから40年である。その間逢ったのは4、5回だったろうか。勤め先に寄って“仕事ぶり”を見学してくれたこともあった。自宅で一泊してもらったこともあった。八重洲の地下街で慌ただしく食事をしただけだったこともある。それらが思い出の一片として去来していく。

はるか遠くまで来てしまったものだと改めて思うが、こうして再会できることが新たな軌跡のようにも思えてくる。
近況を報告し合いながら先月訪ねたという広島の街の、とりわけ共に一年ばかり過ごした寮周辺の様子を聞くとにわかに懐旧の念が湧いてきた。こちらがとうに忘れていることもこの友はよく覚えていた。そういえば、と思い出は甦ってきて、楽しいひとときだった。なごりが尽きない、とはこういうことを言うのだろう。

「髪を切ってもらうんじゃが、お父さんてっぺん薄くなってきたよ、と言われた」ときれいな白髪をなでてみせる。外に出て人の群れを縫うように歩いている間「あぶないよ。転ぶんじゃないよ」と奥さんは彼を気遣っていた。彼女と逢うのは結婚式以来ほぼ36年ぶりだが、互いに慈しみあって長の歳月を経てきた滋味ともいうべきものが全身から滲み出ていた。なかなかいい風景だった。見習わなければならない。


2011年11月4日(金)

朝五時頃目が覚めて、そのまま“一日の活動”に入ったため、仕事に向かう途次は車を運転しながら猛烈な眠気に襲われた。あたたかい陽射しに誘われるせいだろうか。いったん車を停めて仮眠をとりたいほどだったがそういうわけにもいかずほっぺたをつねりながら走らせた。

夜、家に辿り着いたすぐはストーブをつけないと寒い。しばらくすると人心地がついて、ストーブをつけていることを忘れてしまう。

夜中になって、卒業生からのメールに気付いた。14、5年前中学生だった教え子である。何年ぶりかの近況報告で、来春に男の子を出産予定と書かれていた。奇想天外な考えをさりげなく披露するような、独得な生徒で、逆に教えられることも多くあり、贔屓にしていたものだったが、その子がもう母親か、と感慨にふけった。秋の夜長。


2011年11月7日(月)

朝雨戸を開けて、軒下の物干し竿に“干し柿(吊し柿)”がつるされているのを発見した。昨夜帰宅したときは気付かなかった。
留守がちの家に対するとなりの人の好意であった。サプライズの心もかくされていたのかも知れない。

ともあれ、秋から冬にかけての風物詩が出現したわけで思わず笑みがこぼれ出た。
それに、朝陽を浴びてきらめき、きれいだった。百聞は一見に如かず、




2011年11月8日(火)


立冬。陽が射すことはあったが、おおむね曇りで、気温も低かった。寒いというほどではなかった。
終日外には出ずに過ごした。夕方、鍋に、小蕪・大根・ジャガイモ・豆腐などを放り込み、醤油、だし汁、日本酒、砂糖、みりんを適当に入れて煮付けてみた。これを思い立ったのは、数日前、小蕪の味に開眼(惚れた?)したのがきっかけである。
にわかベジタリアンもここに極まる、とかなんとかひとり呟きながら最後に昼間作っておいたゆで卵を入れてしまった。“菜食主義”に瑕瑾を施すような仕業となったが、それでも、砂糖と醤油を入れすぎたいつぞやの肉じゃが(もどき)よりはうす味で、まろやかな舌ざわりだった。


2011年11月10日(木)

朝夕が寒くなったので玄関の中に入り込み、下駄箱の上に高々と聳え立つようになった龍眼の樹から実をひとつ採って食べてみた。褐色のうすい皮の下にある、龍の眼のような種子をくるむ半透明の果肉を食べるのである。果肉はうすっぺらだから、舌の上で転がしていれば龍の眼からぺろりとはがれる。その瞬間「旨い!」 と思わず叫んだ。

去年はたしか柿の甘みのようだと思ったが、ことしは通草(アケビ)の甘みに似ている。その甘みはミルキーである。小さな頃山を歩き回りながら蔓に手を伸ばして採った紫色の、ホンモノの通草、いまや“幻”と化した通草の味である。

あと3個もいで神棚の三方に置いた。そこには去年の実が数個残っていて、比べてみれば大きさが断然ちがうのでまたびっくりした。一年の間に縮んでしまったということも考えられるが、去年は幼木をもらってから2年目ではじめて実ができたのが嬉しくて“収穫”を焦ったのかも知れない。

球状の実は、去年(左側)と比較すると、直径にして約1.3倍、体積は約2倍という見当である。この大きさが、味のちがいと関係があるのかどうか。あるとすれば、あの樹齢三百年の大樹にルーツを持つ龍眼の、はじめての実はちと不幸だったのかも知れない。

幼木をくれた宮内勝典さん『焼身』で、庭さきでの祝宴に招かれて手を伸ばした褐色の果実から、

「樹齢三百年をこえるという龍眼の大樹が枝をひろげ、その樹ひとつで鬱蒼としたジャングルをつくっていた。私はその木陰で遊びながら、褐色の実をひろっては、ほんのりと甘い果肉をうっとりと味わい、それから、つるりと種を吐きだす。龍の眼、となぞらえられる黒い瞳のような種であった」(初出誌『すばる』2005年3月号から引用)

と小学生時分を回想されている。

2年目の実はまだたくさん成っているので、誰かにも食べてもらって、この「ヤバイー」の感覚を共有したい気分である。




2011年11月11日(金)

きのう、日高陸橋をわたってすぐの交叉点で、向こうから歩いてくる知り合いを見かけた。職場で見かけなくなって久しい。どうしているかなぁ、と思っていた。人なつっこくて、他人のことも自分のこともなんでもよく話してくれる気のいい若者である。秩父の近くに住んでいると言っていたので、ふもとに当たるこのあたりも生活圏に入っているのだろう。この道は高麗を経て秩父に至る往還である。

むこうも気付いた様子なので、右折した先で車を停めようとしたが余地が少なく交叉点をかなり離れて停めることとなった。ほどなく彼がやってきて助手席のドアを開けた。「やぁ、元気?」と大きな声で言った。それはこちらも同じ思いだった。聞きたいことはいっぱいあったが長い駐車がはばかられたので、ほとんどそれだけで別れることとなった。一瞬の邂逅だった。

夜の帰り道、彼の名前はなんだったか? で躓いた。どうしても思い出せないのである。外堀から攻めていこうとした。すなわち、平凡な名前だった、上の一字をとってちゃん付けで呼んでいた、と。もうすぐ、昼間出会った交叉点にさしかかる。ここを通過するときに記憶が戻ってくるかも知れないという一縷の望みを抱いた。が、ダメだった。

自宅が近くなって、ラジオから「山田○○さんに話をうかがいました」という声が聞こえてきた。あっ、と思った。それにしても、長い道のりだった。

遠い昔一緒に酒を飲んだときの思い出を添えて友人にメールを送っておいたところ、今日返信が届いていた。何回か読み返してみたが、彼我の記憶には大きなずれが生じている。
こちらは、長い道を辿ってきたゆえの時のいたずらであるのだろう。物忘れとは、趣はちがうが、並べてみれば同じもののように思えてくる。


2011年11月14日(月)

朝の出勤前に、里芋掘りをした。
当面食べる何個かをとりおいてあとは土中に埋めておく。その穴を掘るのに汗をかいた。そのあと、株の回りをスコップで深くえぐって小芋と土をつけたまま(小芋が親芋からはぐれてしまわないように!)掘り出すのに神経を使い、かなりの汗もかいた。気温が高かったせいもある。

深く掘った穴の四隅に目印の棒を立てて、掘り出した株を整然と土底に並べてから土をかける。こんもりとした山ができるまでかける。ここでもまた汗。一時間もあれば終わるだろうと思ったが、意外とかかってしまった。大豊作であったから、疲れはしなかった。

これら一連の作業は、Tさんの指導を身近で仰ぎながら行った。これで来春まで完璧に保存できる。古来の知恵をなぞるような気がした。


2011年11月15日(火

昨夜、札幌で初雪が降ったという。

「1876年に統計を取り始めて以降、11月14日に初雪が観測されたのは1922年以来89年ぶりで、1890年11月20日、1886年11月18日に次いで観測史上3番目に遅い初雪となった。」(YOMIURI ONLINE)

旭川でも雪が降った。この朝すでに積雪4センチ、明日にかけても降り続くと予報されていた。

4日前に旭川から成田経由のスカイマーク便で帰って来た配偶者はその逆のルートで今日、雪の旭川に戻ることになった。こちらとあちらの温度差、その実感はいか様か。想像の埒外にある。

リムジンバス(路線バスより内装が豪華であるというのが原義らしいとはじめて知った)が川越を出発してしばらく経ってから、
「防寒着は持ったかね?」
といまさらながらのメールをすると、「向こうに娘のお古が一着ある」と返事が来た。
さらに続けて、
「成田が近くなったら連絡を」
と書いて送った。

というのは、配偶者がバスに乗り込んだあと、「いままでに最高何時間遅れましたか?」と元官房長官に似た乗務員に訊けば「三時間」と答えたからだ。

「時間通りに到着する確率は?」
と畳みかけると、
「首都高次第なんですよ。事故などがあったときは…。普通でも、2,30分は遅れます」
枝野さん似の乗務員は、慎重に答えた。心配性のボクらを安心させる明るい材料はなかったのである。
飛行機に乗り遅れたら一大事、予約するときもうひとつ早い便をと考えなかったわけではないだけに、このことは配偶者には教えなかった。乗ってしまった以上、じたばたしても仕様がないのも事実である。

約2時間後、あと少しで成田に着くかな? というメールが来た。予定時間よりも15分ほど早い。杞憂に終わってよかったが、また当分はひとりかと思うと愉快な気分にはなれなかった。


2011年11月19日(土)

本降りになる前、つるバラが白い花弁をつけていることに気付いた。これは、30年前、坂戸・永源寺のお釈迦様のお祭りで買った苗木の“子の世代”に当たる。7年前ここに引っ越してきたとき奇跡的にさし木に成功した木である。“親”はいまも庭の道路に面したところにあって、毎年数回、力強く花を咲かせてきた。アブラムシをたくさん寄せ付けて猶、堂々としたものであると年々感心してきたが、白い花はついぞ見たことがなかった。これを奇瑞とみていいのか。
その後雨は、いっとき激しくなったが、夜には止んでしまった。




2011年11月20日(日)

日本橋から京都の三条大橋をめざす「東海道ラリー」、毎日ホームページにアップされる写真を見るのを楽しみにしてきた。25日かけて東海道を歩くという、ある意味で壮大な計画に「へぇー、長いなぁ。悠長だなぁ」と思ったものだったが、今日はもう22日目で、鈴鹿峠を越えて、いよいよ土山宿に入ったという。夜の訪れも早くなったが、日のすぎるのがあまりにも早いことに改めて驚く。それはさておき、旧街道に面したところで茶房「うかい屋」を開くわが友の喜びはいかばかりか。


2011年11月23日(水)

勤労感謝の日である。今日は仕事だが、昨日が休日だった。

その昨日のこと。
昼間は所用かつ家事を済ませ、夜、「寝盗られ宗介」(1992年 若松孝二監督 原作:つかこうへい)を見ながら笑い、少しの悲哀感も覚え、そのあと文庫版『かくれさと苦界行』(骭c一郎) を手にベッドに潜り込んだ。

ベッドわきの障子の破れがひどい(張り替えたのは、覚えているかぎり3年前の暮れである)ので、内側にレースのカーテンを垂らしている。横たわっているといつも目にすることになる裾の汚れが気になってきた。そこで思い立ってそのカーテンを洗濯した。昼間の家事の中にはそれも入っている。白がきれいだと、少しは和らいだ気分になるものだ。

午前3時前に突如目が覚め、ラジオをつけるとほどなく中島みゆき特集が始まった。約一時間そのまま聞き入る。

この一日、感覚として長いのか、短いのか、いつものことながらわからなくなる。いつしか今日になっているのだった。


2011年11月26日(土)

昨25日は“長い一日”だった。

所沢から国立へ移動するのはいつもの金曜日のことだったが、そのあと娘と会うことにしていたので川越に寄り道した。早い時間に着いて仕事から戻ってくるまで近所のスーパーの駐車場で待った。それから駅前に移動して、また待った。合計2時間くらいをただ待つことに費やした。

水漏れ(?)と訊いていたので実際に洗濯機を回させてみた。何ヵ月か前に、底部に丸めて押し込んであったホースの先が破れてひどい水漏れがあった。そのとき長いホースを半分ほどに切って排水口に深々と差し込んでおいた。

懐中電灯で照らして洗濯機の底面を覗くとそのホースが、モーターの回転に合わせるようにくるくる回転している。こんな風だと前轍を踏んでまた穴が空くのではないか、と思ったが、漏れがないことを確認してから退散した。

3キロほど走ったところで「やはり漏れてる!」と抗議の電話。仕方なく引き返した。
排水口のまわりが石けんの泡ぶくにまみれていた。危惧した通り小さな穴が空いているにちがいない。この程度の漏れは拭けば何でもないのに「こういうことがあると安心して外出できない」などと言うので、排水口と接する部分にガムテープを何重にも巻いた。それで安心してもらうしかなかった。

帰り着いたのは午前1時であった。ため息が出た。

今朝、数日前蕾のままに活けておいたバラの花が大きく開いていた。これには救われる思いがした。





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